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スピノソーシスト 他者なき共存、根源の世界

「他者なき共存、根源の世界」

 田中さんは昔に戻りたかった。
 定年間際の平社員田中さんには出世の道などない。
 この年になるまで一生懸命、仕事に励んできたつもりの田中さんを評価する人はもちろん、同情する人もいない、田中さんは職場の視線の外にいた。
 職場だけではない、家に帰っても妻との会話はなく、一人娘にいたっては顔を合わせることさえない。
 それでも田中さんは毎朝、黙って家を出で職場に向かう。
 他に行くところも、居場所もないのだから仕方のないことだ。
 田中さんは生きる希望も力も失くしていた。
 ある日、田中さんはふと思った。
 『前はこんなふうじゃあなかったはずだ、十年前、いや二十年前でも、それなりに充実感を持って仕事に取り組んでいたはずだ、家庭ももっと楽しかったはずだ』
 いつから何が原因でこうなったのか、田中さんは必死で考えたが答えは出なかった、考え疲れた田中さんは『原因をあれこれ考えるよりあの頃に戻れたら一番いい』と思い始めた。

 現在の田中さんは、出勤はしているものの、これといった仕事はしていない、毎日パソコンの前には座ってはいるが、仕事と全く関係のない画面と真剣に向き合っている、ある日の朝、マウスをいじくり回しているとき、ふと目に留まったものがあった。
 【過去に戻ってみませんか、未来に行ってみませんか】田中さんは思わずクリックした、画面が展開されたが、面倒な説明や小難しそうな学説などは飛ばし、たどり着いたページが【過去・未来へ誘う 中村総合研究所・・・】
 研究所の地図も経路もなく住所のみが記されていた。
 すかさず田中さんは、その研究所の住所をメモると同時に、上司の前に進み「今から休暇を取らせてください」と願い出た。
 始業時間から一時間も経っていないが、 上司は無言で頷き、回りの社員は無反応。
  田中さんは電車を乗り継ぎウェブページの住所にたどり着いたが、それらしき研究所は見当たらなかった。
 すると田中さんの前に薄汚れた白衣をまとった年配の男が現れた。
 「研究所をお探しですか」
 [はい、あなたは]
 「研究所の中村です」  
 田中さんはその中村先生とビルの谷間の薄汚れたマンションに入った。
 看板も何もない、普通のマンションの一室に通され、二人は対面に坐した。
 「あのう・・・本当に過去に戻れるのですか、二十年前とか」
 「はい、戻れます、あの機械が二十年前に戻してくれます」
 「機械って、あのバカでかいロッカーみたいなやつですか」
 「そうです、あの中に入れば過去に戻れます」
 「タイムマシーンですか」
 「そんなもんです、未来に行くこともできます、また現在に戻ってくることもできます、自由にね」
 「いや過去だけでいいです、それで費用はいくらですか、料金は」
 「じゃあ、千円」
 「千円、安すぎませんか」
 「いや実は、この装置で過去や未来に行った人はまだいないのです、あなたが初めてなんです、それで過去に戻った体験なり感想を一旦現在に戻って私に聞かせて欲しいのです」
 「ええー、実験台ですか私は・・・それなら先生自らが実験台になれば」
 「いえ私は現在とか過去とか未来とかの観念も感覚もないので、過去についての思いも何もないし、比較のしようがないので、そういう人間は戻っても感想も何も語れませんから」
 「はあ、そういうもんですか・・・、だから千円か」
 「で、どうされますか」
 「ああ、とにかく過去に戻りたいので・・・それから現在にまた戻って先生に報告すればいいだけですね、だったらお願いします」
「そうです、戻りたければまた過去に戻ればいいだけです」
 「わかりました」
 「では、二十年前でいいですか」
 「よろしくお願いします」
 田中さんはタイムマシーンもどきの中に入り、ケーブルや電極装置がやたら多いヘルメットのようなものを被らされた。
 その横には中村先生がコンピューターの画面と向き合っていた。

 ほどなく田中さんは意識が薄れていくのを感じ始めた。
 田中さんは二十年前に戻った。
 二十年前の田中さんは今と同じ職場にいた、また今と同じ家に住み、妻もいて、両親も健在だった。
 とりたてて大事な仕事を任されていたわけでもない田中さんだが、毎日ごく普通に仕事をしているように見える、そして終業時間と同時に職場を出て自宅に向かっていた。
 職場での信頼、期待度はゼロといっていいだろう。
 親が建てたとはいえ豪邸と言われる家に帰ると待ち構えていたものは、嫁と姑からの互いの悪口だった、それを聞くのが田中さんの日課だった。
 二十年前といっても田中さんの人生は充実したものではなかった、むしろ日常的に不平不満、不足感、不安感を抱えていた、愚痴は聞いても愚痴を言える相手などいなかった、それでも親の知人の紹介による強制的な見合い結婚とはいえ、家庭を持った以上、耐えるべきところは耐えねばならないと考え、現状を変えようとか現状からの脱却や克服する手立てを講ずることなどは、現状からの逃避だと考え、男は我慢とひたすら耐えていた。
 そんな田中さんは自分のことを、その男らしい決意とは裏腹に心の底では「みじめ」だと思っていた。

 現実と呼ばれている世界に一時帰国した田中さんに中村先生は訊ねた。
 「どうでしたか、過去は」
 「はあ、本当にあれが私の二十年前なんですか」
 「そうです、あれが真実です、間違いなくあなたの二十年前です」
 「おかしいな、前はもっと楽しかったはず・・・あれじゃあ、今と変わりませんよ、いやそれどころか・・・」
 「それは、あなたが記憶を書き換えてしまったからでしょう」
 「えっ、どういうことですか」
 「つまり現実が面白くないので、その状態を何とか克服しようとして、過ぎ去った場面を自分なりに脚色したんでしょうね、脳の中の無意識な自己防御反応の一つですよ」
 「無意識な自己防御反応?ですか」
 田中さんはがっくりとうなだれた。
 「でも心配することはないですよ、多かれ少なかれ現代人はみんなそうですから。
 みんな現状からの脱却を求めているんですよ、どんな状況の中でもね、この世界がダメならあの世界へというように、たとえ目的地に着いたとしても現状からの脱却そのものが欲望となっているので、満足はできないでしょう、せいぜい人前で満足したふりをすることくらいしかできないでしょうね、また出かけますよ、そこが本当は地獄であっても行こうとするでしょうね。
 ついでの話になりますが、一つの出来事に対する喜び悲しみの量は決まっているようなものです、先に十分喜んでしまえば、その出来事が起こったときはもう喜びは終わっており、またその出来事の前に不安感に襲われるなど、十分悲しんでおれば、その出来事が実際に起こったときは、それほど悲しまない、そういう仕組みになっているみたいですね。
 それと大きな喜びには大きな悲しみがついてくるとか、また大きな喜び悲しみがなければ小さなものが重なって現れるとか、あるようですね。
 人の一生の中でも被る喜び、悲しみの量、質、種類は決まっていて、その決められた諸感情にいろんな像や観念などがランダムに結び付いちゃう感じですね。
 まあ、喜びや楽しみといっても、やるまで、行くまでの期待が全てで、その段階で楽しみは終わっています、脳はこの喜びはもうおしまいと店じまいしていますよ、脳も暇ではありませんから次の仕事にかかりますよ。
 言葉で言うのは別として、かつて見た感動的な景色が今はそうでもないと感じるのが実際のところでしょう。
 感動したとすれば、それは実際そこに行った、ここに来たという経験に関する感情でしょう」
 「昔の思い出と今とは違うことはありますね」
 「タイムラグはあります、脳は過去の像の観念を感情などで加工し、それを現実だと思い込ませようとしますし、自分のイメージだけでものを見ようとします」
 「何でも勝手に見ようとするのか」
 「人間の脳と感情の仕組みの一つかもしれませんね。
 無理矢理の感はありますが。
 己も己を取り巻く状況も刻刻変わっていますから。
 それはそうとして、満たされていないから動き回る、中身が満たされておればデンと構えているだけですけど。
 そうでないと、あるはずもない自分の居場所を求めて彷徨い続ける、どんな状況においても決して満足しない特有の遺伝子が脳内に蓄積された像を駆使して不安、不平不満を煽り立てる、何回も何回も期待が裏切られても期待そのものが快となってしまっているので止めようとしない、幻想にとりつかれた人間の悲しき定め悲しい性、悪しき習性ですね。
 本当はどこにも行かなくても喜べる場所、楽しめるところは誰にでもあるのに」
 「そうですか、私は現在も過去も不幸で楽しくなかったということですね」
 「不幸かどうかはわかりませんが、そう気を落とさなくても、だったら今度は、未来はどうですか、未来に行ってみますか」
 「未来ね・・・世の中がどう進歩しようが自分も回りの人間もそれだけ年を取っただけでしょう、そんな未来が幸せに満ちているなんて今の私には思えませんよ」
 「それなら、ずっと未来の死後の世界はどうですか、あなたの死後の世界です」
 「えっ死ぬということですか」
 「いえいえ、死後の世界です、また自由に現在に帰って来られますよ」
 「また実験台ですか、大丈夫ですか」
 「完成度から言うと八十パーセント程度というところかな」
 「八十パーセント程度ね、でも、すぐに帰って来られるんですね・・・」
 「それは大丈夫です」
 「そうか、死後の世界ってどんなところなんでしょうね、楽しいのかな」
 「間違っても自分が不幸だとは感じませんよ、嫌なこともなく、きっと楽しいと思いますよ」
 「死後の世界か、嫌なら帰れるか、よし行ってみよう、お願いします」
 田中さんはテーブルに千円札を置いて、タイムマシーンもどきの中に入り、ヘルメットのようなものを被った、中村先生もコンピューターの画面と向き合った。

 田中さんは死後の世界に行ったが、完成度がまだ八十パーセント程度ということか、多少面食らってしまった、下界での自分がときどき顔を出すのだ、確かに嫌なことなどなく、自分が不幸だとは思わない、しかしとりたてて幸福だとも思わない、要はメリハリがないのだ。
 回りは人も犬もネコもみんなのんびりした感じで争いごとの気配どころか他人を気にする様子さえない。
 田中さんは横にいたネコに聞いてみた。
 「ここはみんな穏やかで、その上、他人のことなど全く気にしている様子はないですね」
 「そうですよ、一人一人が天の力の分有、天という生命力の分有でしてね、それぞれ天とつながっているので必要なものは天から与えられますし、不必要なものは省いてくれますから」
「不必要なものを省いてくれるのですか」
「余計なものを背負い込むのが苦悩の元ですからね」
「他人との関わりなんかも余計なものなんですか」
「天と一対一の関係というか垂直関係なので、下界のようなものともの、人と人との水平関係ではないので他者を気にすることはないですね、そんなことしたくてもできませんから、第一、天の力の分有としての存在ということ以外、他人様のことなんて分かりませんよ、表面上はともかくとして、中身は分からないようにできているんですね、分からないことは考えの対象外のはずですよ、分からないことを分かろうとすると迷い惑い悩み苦しむのが落ちでしょう、下界ではそういうことがよくあるかもしれませんがここにはそんなものありません。
 こうしてのんびり一人一人が一人一人を楽しむことが天国の理であり一人一人の理でもあるんです」
 「はあ、なるほど心の中に他人はいないということですか、まあ素晴らしいといえば素晴らしいですね・・・、必要なものは天が授けてくれるとおっしゃいましたが天から誰かが下りてきて授けてくれるということですか」
 「いいえ、誰も下りてきませんよ、回りにいる人からですね、でもその人も個人というより同じ天の力の分有なので、その人を意識することはありません」
 「授ける方も授かる方も同じということなんですか」
 「同じです、何をしているかは問題ではありませんし、白でも黒でも赤でも、丸でも四角でも三角でも何でもいいのです。
 全て天の力の個別的表現ですから、動いていようが、止まっていようが、起きていようが寝ていようが、それぞれが一つの表現で、その一つ一つのつながりこそが天の力であり天の共存関係です」
 「暗黙の共存関係ですか」
 「暗黙というより、もともと天しか存在しないし、天しか活動していないし、我々はその天の力をそれぞれの形で表現している個物ですから、個物同志は意志とは関係なく天の力による必然的共存者ですね、天の共存は調和の美学です」
 「調和の美学で、必然的共存か」
 「キャンパスに白く塗られた一部分に黒を塗ると、それは白の部分的な否定です、しかしそれは白と黒をあたかも独立した実体のごとく考えた限りのことで、白も黒もキャンパスに描かれた一つの作品を白は白として黒は黒として表現しています。
 美しい花もその花自体が単独で美しいというわけではありません、回りや見る側があって始めて美しい花が生まれます。
 下界の人には、この花という一点だけが美しく見えるかもしれませんが、実はこれは天の共存の世界そのものが美しいということです。
 天の存在はそのまま個物の共存です」
 「ふーん」
 「私がいて、あなたがいるということはそのまま共存しているということで、私やあなたの意識とか意志や考えとは次元の違うものです、天の必然性です、私とあなたは確かに違いますが、共存しているということは何某かの共通なものがあるということです、それは天の力の分有、力の個別的表現という全てに共通するものがあるということです」
 「なるほど共通するものねぇー・・・みんな平等なんだ」
 「下界のような水平的関係の世界でも本来はあれがあって、これがある、これがなければあれはない、そこには価値の差などなく全て平等ですが、ここでは天との一対一の垂直的関係の世界ですから平等という意識さえありません、比べるものがありませんから」
「へえーそうですか、ところでネコさんはどうして死んじゃったんですか、病気、事故、寿命、以前は飼われていたの、それとも野良」
 「さあ、そんなことはここでは意味のないことですよ、過去のことなど考えている人は一人もいませんよ、今ここに在ることが全てで、それ以外の自分史なんてありませんよ」
 「そんなんで楽しい?」
 「あなたは喜びや楽しさを求めているのですね」
 「そりゃーそうですよ、人間みんなそうですよ」
 「それで楽しくなりましたか」
 「それができないからみんな苦しんでいるんですよ」
 「喜びを求めているのに苦しんでいるのですか」
 「ええ、まあ、ここではそんなことはないということですね」
 「苦しみから逃れるために苦しんで、そして一瞬の忘却の後、またそれを繰り返す、それは苦を原動力にしなければ活動できない、安心していては生存さえおぼつかないと宿命づけられている限りの世界の話でしょう。
 苦を原動力としているので、幸せを実感できないのは当たり前で、苦が去った瞬間こそが至福ということでしょう」
 「ネコさんは何を楽しみに、何を喜びにしているんですか」
 「喜びの対象を外に求めることはありません、他人も含めて、外のものは私やあなたを喜ばすためにあるわけでも、いるわけでもありませんし、過度な関わりは時として人を悲しませるものでしょう、むしろ下界の現代人は麻薬のような人間関係に苦しんでいるのじゃあないですか」
 「麻薬ですか」
 「それがないと不安になり、求め続けているうちにおかしくなり果ててしまう」
 「そうかも・・・」
 「それに対象あっての喜びでも楽しみでもありませんから、喜ぶ力が天にあればこそです。
 見る力にしても聞く力にしても、どれもみんな経験だけが全てということではありません。
 何かに感動するのも同じです、何にしろ、始めに力ありきです。
 喜ぶ力があることほど、嬉しく楽しいことはありませんよ。
 何もなくてもそれだけで十二分に喜び楽しめますよ、対象など要りませんよ。
 敢えて言えば、回りの外部や他物は、それ自体が我々に喜びを与えるものでも対象というわけでもなく、天の喜ぶ力を再認識する契機に過ぎないもので、契機にもならないものなら離れればいいだけです。
 天には喜びだけで悲しみなどありません。
 その喜びも外部のものが喜びを与えたわけではありません、天の喜びの後に、心の中にあったものがついてきただけです。
 誰かが何かをして楽しんだり喜んだりしていると思うのは、そう見えるだけのことで実際はみんな次にやって来る悲しみの準備に精を出しいるというところでしょう、天には錯覚などありません。
 天の力の分有として、ここに在ること自体が喜びですよ、天はそういうふうにできていますから、ここは楽しみだけしかない世界で、他何もない世界ですよ。
 これが天の力です、喜びは天の力そのもので、私たちはその表現者です。
 何をしているかは問題ではなく、行為に対する理解認識の問題です、その動きなり行為の根底に天の喜びがあることが全てです。
 天の存在、天の力についての理解認識度とそれに伴う喜びの大きさ、これこそが最も大事なことで、それ以外は何もありません。
 ただ単に喜び楽しむ、ただそれだけですが、これが我々の唯一の仕事のようなものです。
 天の喜びの表現者、我々の唯一の肩書といったところですね。
 他物との水平的相対的関係の中では、全ては相対的、限定的で絶対的幸福なんてあり得ませんが、ここは天との一対一の垂直的な関係なので絶対的幸福が得られるんですよ。
 相対的世界にいる限り絶対的なものとは無縁ですから」

 田中さんは複雑な気持ちのまま現在に戻ってきた。
 「どうでしたか、死後の世界は」
 「はあ、何というか、楽しいことは楽しいかもしれませんが、他、何もないので生きている実感みたいなものがないですね」
 「そりゃ、死後の世界ですからね、苦悩にまみれて生きている方がいいということですか」
 「いえ、決してそうではありませんが・・・
 何かその・・・もう一つ溶け込めないというのか、なじめないところがあって、よくわからないんです」
 「よくわかりませんか」

 田中さんは死後の世界である天国で聞いたことを話した。
 「はい、天国にいたネコにいろいろと教えてもらいましたが、いい話のようで、もう一つピンとこないところがあって実感できないのです」
 「実感がないと言われてもねぇー、死後の世界ですから、ふぁっとしたもんじゃあないですかね」
 「何と言ったらいいのかな、私は職場でも家でも無視され続けて、それで・・・」
 「無視とは現にあるものを無いものとみなすことですよ、そんなことしたくてもできるもんじゃあありませんよ、存在を認めた上で、それを否定するふりはできるかもしれませんが、何らかの形でみんな関わっているのが現実の社会や家庭でしょう」
 「うーん、何ていうか、もっと注目してほしいんです、白は白なりに黒は黒なりに注目して欲しいんですよ」
 「注目ね、白あっての黒、黒あっての白ですからね、あまり注目ということを意識すると白は白でなくなり、黒は黒でなくなりますよ」
 「どういうことですか」
 「大スターは注目の的ですね、スター、スター像を作るのは、日常からの脱却を期待している人たちの思いを巧みに利用する制作技術、手法などであって、スター本人ではありません、ファンあってのスターですが、ファンはスターを成功者、勝者と思い込み、憧れ、その距離を縮めようとし、自分の身近な存在だと錯覚し、自分もその成功者、勝者のおこぼれにあずかっているような気になります。
 まあ実際のところ、ファンは自分が求めているものをはっきり認識しているわけではありません、ファンは自分が求めるスター像を知りません、これは人間が己の欠乏感の原因を知らない故に求めるものも知らないということです、でもそれでは不安定な状態、虚しい状態が続いてしまうので、脳はこれを悪しき状態ととらえ、そこそこの代用物を与え、我々はそれを求める対象、憧れの対象と思い込んでしまいます。
 それに現代の人は夢だの希望だの生き甲斐だの、言葉なりフレーズに遊ばれています。
 本来の自分にとっては、必要性も重要性もあまり感じていない言葉やフレーズを、あたかも万人の共通認識のごとくとらえ、乗り遅れるな、とばかりに無理をして自己流に解釈しようとする、これは如何にも無理がある、無理だから言葉と心の間に齟齬が生じる、それなのに無理を続ける。
 こんな無理を続けると、今まではさほど意識することもなかった欠乏感などに襲われるようになります。
 そして、その憧れのスターが夢を与えてくれたとか、誰かが作ったフレーズに乗ってしまい、わけのわからない状態に落ち込んでいきます。
 実際、スターは夢なんか与えません、錯覚しているのはファン本人です。
 錯覚している方がまだましだという状況下に置かれてしまった人が、今は何でもいいから慰めて欲しい、この際何でも慰め、励ましの対象にするぞと構えているということです」
 「でもその人たちはそれで幸せだと思っているのでしょう」
 「演技上はそうかもしれませんが、不安定なもので、また揺らぐでしょうね。
 構えている人は、そのスターに出会わなくても、代わりの誰かを見つけるし、仮に誰にも出会わなくても、何かを代わりにするでしょう、そうした方が生を保つ上で良いと脳が判断しますから。
 それに慣れたり飽きたりしても脳は代わりのものを用意するでしょう。
 これはまだスターになっていない者を応援し、ファンになるのも同じことですが」
 「一緒に成功する夢を見るんですか」
 「慰めを求め、思い出に浸らざるを得ないのと同じで、夢を見たいと思うのは夢を見なきゃあ、やってられない状況に置かれているということですし、その夢というものも結局は外部のものや他者の観念の枠の中で生きるということでしょう。
 これが自分の夢だと言ったところで、他者に納得してもらい、喜んで頂くということが条件になりますから。
 他者が興味なり関心を抱いてくれないと夢にはならないでしょう」
 「そんなもんですか・・・」
 「一方神輿であるスターも担ぎ手を必要とします。
 それでスターである限り何かを演じます、するとまたファンやマスコミに評価され注目もされますが、それだけ他者の目の中に生きることになりますね、他者の観念が個体内部を支配し、他者との関係が全てであるように錯覚してしまう、それが果たして自然の中の個物として在る人間の本質なり本性に合致したものなのかというと、そうじゃあないでしょう、個物としての存在力が失われ、白も黒も中途半端に色付けされ、結果大きな空虚感だけが残るでしょうね、逆に注目されないということは自己の観念において自己肯定しやすい立場にいるということですよ」
 「自然の中の個物ねー、自己の観念に、えーと自己肯定?・・・」
 「自己肯定と言っても、世間で言われているような自分を肯定するという意味じゃあありません、それはできない」
 「どうして」
 「そんな自分なんてものは空概念で、錯覚の代物で存在しないものですから。
 個性と言った死語とも関係ありません。
 あくまで自然の個物としての肯定です。
 ですから、我欲のために他人の力を借りたり利用したり、おもねいたり、また自分を強く見せようとして、弱者や劣者や敵の像を無理やり脳内で作り上げ優越感に浸ることでもありません、そんなものは自己肯定でも何でもないタダの虚栄で、臆病で卑怯な最低中の最低の行為で、そんなことをすれば確実に苦悩という奈落に落ちて行きますよ。
 この自己肯定はそんなものではなく、自然自身が自らの様態であるところの我々も含めた個物を肯定する力そのもののことですが、私たちはこのことを理解しているわけではありません、しかし個々の人間にも自己肯定の衝動だけはあるので、衝動として与えられているだけなので、どこで誰が何を肯定しているのか分からないまま、とりあえずの代理物として、自分の回りのものを自己肯定の手段にしてしまい、自己肯定と集団の中での優越感とを取り違えてしまう人間が出てきてしまうのです。
 本来は他者への優越感も憧れも忌避も尊敬も軽蔑も何も必要ないのに。
 同様に、ことさら奇をてらう行為も必要ありません。
 また必要とするものが十二分にある、つまり身の回りに余剰物があるという状態を肯定することと自己肯定とは何の関係もありません、それは外部のものの肯定であって個物そのものの肯定ではなく自己肯定に代って他物が肯定されている状態です。
 評価や評判にしても同じことで、移ろいやすい感情を持った人たちの価値意識がたまたま一致したように見えたとき、それが世間の評価、評判となっているだけで、これは個物そのものではなく、評価する回りのもの、すなわち世間の波間に漂っている人たちが肯定されているだけです。
 そんなものに押し流される必要はありませんね。
 所有欲も名誉欲も、それそのものが求められ、肯定されているわけではなく、あくまで衝動として与えられている自己肯定の方法、表現の一つとしてあるわけですが、これらの欲望を手段とする自己肯定は混乱した精神によって取り違えられた偽物の自己肯定で継続しない欺瞞の満足に過ぎません。
 死後の世界、天国でもお聞きになったように自然は自然自身の存在を肯定する力そのものです、何某かがそこに在る以上、否定する力ではありません、否定が在ることの否定である限り、そんなものは自然には存在しません、肯定するその力は自然の中で個物という形でも表現されています、あなたや私それに他のものとして、その個物固有の自己肯定力、個物の本質のことです、それに対応しているのが個物の本質の観念すなわち固有の自己肯定の観念です、精神がその本性上、肯定しているものはこの本質の観念です」
 「はあーん、分かったような、分からないような」
 「そのうちに分かりますよ」
 「現実はもちろんのこと、過去も辛かったし、未来といっても天国はいいようでも・・・。
 私はどうすればいいのですか、どこに行けばいいのですかね、もうわかりません、この世界は一体どうなっているのですか、私には居場所がないということですか、もう頭がおかしくなりそうな感じです。
私はどうすればいいのですか、本当のところ」 

 「じゃあ最後に真実の世界はどうですか」
 「真実の世界?」
 「そう真実の世界、真理です、それが真理なら、別の様はあり得ないので必然と言ってもいいでしょう」
 「必然ならどうしようもないですね、なるようにしかならないということですよね」
 「まあ、そんなところですが、必然とは別様があり得ないと同時に時間の概念を含まないということです、つまり真実の世界は時間の中で創られたものではなく、永遠の真理ということで、真実の世界そのものが必然、必ずそうあるということです」
 「うーん、行ってみようかな?」
 「但し今度は行くというより見るということですね」
 「どういうことですか、あのタイムマシーンじゃあないのですか」
 「はい、ここで画面を見るということです、横で私が簡単に説明します」
 「説明?何の」
 「見ただけでは分かりにくいもので」
 「はあ、そうなんですか、まあ見るだけならいいか、それもお願いします」
 「じゃあ奥の部屋へ」
 二人は奥の部屋に入った。
 部屋に入ると田中さんは大きなスクリーンディスプレイを目にした。
 「これで見るのですか」
 「そうです、ああ今度はこの帽子を被って、では始めます」
 スクリーンに映し出されたのは細胞の活動のような、あるいは万華鏡の世界のような、得体の知れない模様らしきものがうごめいていた。
 模様同志がぶつかっては大きくなったり小さくなったり、現れたり、消えたり、次々に形を変え、色を変えていた。
 田中さんが「何ですかこれは」と訊ねると 中村先生は横でコンピューターに映し出された田中さんの脳内の画像を怪しげに操作しながら説明を始めた。
 
 「これがあなたも私も生きている真実の世界ですよ、真実の世界を時間ではなく、永遠の相から見たものです」
 「ええっ、これが」
 「ピンポイントで拡大してみましょう、見えますか、この動いたり止まったりしている小さな点のようなもの」
 中村先生は無数に広がる点のようなものの一つを指した。
 「えーと、みんな目まぐるしく動いているように見えますが」
 「その中の小さなこれです、スロー再生してみましょう」
 「ああこれですか、あっ色が変わった、形も変わった、あっ見えなくなった、これって何ですか」
 「あなたですよ」
 「えっー、この小さな点が私、どういうことですか」
 「真実の世界のあなたです、あなたの体、それに対応する心もそうですが、回りのいろいろなものから影響を受け色や形が変化しているのが分かるでしょう」
 「ああ、ずっと変化している、これだけ回りのものから影響を受けているのか、あっ消えた、死んだということですか、まだ生きているのに」
 「時間で見ているわけではありません、永遠、必然の見地からです」
 「変化したり消えるのは必然ということか、それこそ永遠の真理ということなのか」
 「この小さな点を拡大してみます」
 「いろんなものがくっついたり離れたりしている」
 「そう自然の中のいろんな個物が作用してあなたという個物、個体が生じたわけです、まあ分子であったり、その上の細胞であったり、あるいはその上位の階層のものなら食物であったり、さらに角度を変えてみれば親であったり、その他多種多様なものが」
 「個物?ああ、みんな自然の中の個物なのか」
 「個物の世界は、個物同志がどう関わろうが、またいろんな個物が無限に集まっても、離れても、どのように作用しようが変状しようが個物は個物です。
 見えるものも、見えないものも、我々が世界と呼んでいるものを物質的に簡単に説明してしまえば、自然が存在し、その自然とは力のことで、エネルギーが物質に物質がエネルギーに転化するように、その力の展開が物質的な世界、さらにその展開が我々のような有限個物に変様するということです。
 個物は自然の力によって生じ、そして個物として存在する以上、そこに個物間の因果関係が織り成す世界が必然的に現れます、これもまた自然の力です」
 「はあ、それでみんな個物か」
 「それであなたという小さな点をよく見てください」
 「よく見ろと言われても消えちゃったから」
 「いいですか、さらに拡大しますよ、よく見て」
 「ああー、赤いものがまだ残っている、これは?」
 「あなたの本質です」
 「本質?」
 「本質とは自然の存在する力そのもののことです、あらゆるものの存在の根源のことで、この力がなければ全て全くの無ということになります、この本質という力は、存在する力であると同時に何かを引き寄せ、また引き離す力です。
 その力は部分としての個と個の変状なり新陳代謝を通して全体としての自然を同時に成り立たせているところの力です。
 個体の側からすると、身体の存続維持と消滅に向かう力が同時に働いているということです。
 生きる力も死ぬ力も共に自然の力の現れです。
 個体の行為は個体と外部の力の関係により決定されますが、その全ての力はこの自然の力の展開です。
 この力が全ての個体をそうあらしめているところの究極的な原因です。
 また宇宙にある星の爆発誕生なども究極的にはこの自然の力の現れであり、その結果です。
 宇宙の爆発によって全てのものが生まれたというなら、その力と我々の存在なり在り方が無関係とは言えないでしょう。
 同じ力が働いています。
 で、この赤いものこそ、自然の存在する力の個別的表現であり、あなた自身の本質、すなわちあなた固有の存在する力、存在肯定力です」
 「これが私の本質、私の固有の力ですか」
 「自然が有するこの力自身は自然と同じなので生成も消滅もせず、増えも減りもしませんが、この力の元にいろんな個物が集まったり離れたりしますが、集まったときのことを生、離れたときのことを死と呼んでいますが、この力すなわち本質そのものは在り続けているのがわかるでしょう、ですから死と呼ばれているものは真実の世界では特別なことではなく、本質の元にたまたま集まった外延的部分が気体か何かに変化して見えなくなったということ以上のことではありません。
 自然からすると生死の境目などありません、無限に変状する個物の姿があるだけです」
 「赤いもの以外は色が変わったり、形が変わったり、消えたりしていますが、赤はなくなっていませんね、ということはこの赤にいろんなものがくっついたのが私ということで、くっついたものが変化して見えなくなっても私そのものはなくならないということか」
 「ええ、あなただけじゃあなく全ての個物がそうです。
 外延的部分についての一つの例ですが、本質の元に集まった外延的諸部分間の運動の結果が、人間には体の大きさ、肌の色、容姿とかの違いに見えるということです、もちろん表面的な心の動き、表情、態度などもそうです」
 「人間もネコも犬もみんなそうですか」
 「自然の視点からはそうですが、全体をよく見てください、赤い点のようなもの、本質ですが、それぞれ濃度があり、あなたもそうですが人間のそれが一番濃い、ネコや犬や他のものよりもそれだけ個別性が強いということです、だから人間を種や類や群れで分けるのは難しいですね。
 本来的には人間が種や類の存続のために生き死にすることは極めて稀で限定されています。
 まあネコにも犬にも、本質も本質に関する認識も、意識しているかどうかは別にして、それなりにありますが、ただその現れ方が人間には理解できないので、人間目線からすると下位の生きものに見えてしまうということです」
 「じゃあどうして形として人間になったり、ネコになったりするのですか」
 「それは先程の外延的諸部分間の運動と同じで、自然の力によって生じた微粒子やある種のエネルギーの運動状態によるものです、たとえばその運動によってAというものが生じ、それがBと結合し、結合したものがまた他と結合し、縦横無尽な無限の結合分離の関係の中で生じたものがこの人間とかこのネコとかこの石とかに見えるということです。
 また私たち自身、私たちの動きや行為もこの自然の力によって生じた微粒子やある種のエネルギーの運動の結果です。
 ですから私たちが目にし、耳にするものは全て、分子レベルの物質的なるものと、その観念が織り成す世界以外の何ものでもありません、すなわち自然の力、運動です。
 体の温もりや冷えなどを感じるのもそうです、自然の中に、その温もりを感じている体以外に如何なる物質も如何なる気体も何も存在しないとしたら、そこから温もりを感じることなどできません、だからこれは全自然の力、自然の中の運動を感じているということです。
 この真理を理解した方が、反って温もりを感じるより癒され落ち着きますよ。
 私たちは常に何らかの刺激を受け、反応し、緊張状態や緩和状態になりますが、これは個人の意思とは関係なく自然の運動の結果です。
 見方を変えて言ってしまえば、Aという遺伝子がBという環境の下で反応し、Cという現象が生まれ、それが、ある社会の中では時としては犯罪になったり、時としては英雄的行為になったりもするということですね。
 分子レベルでの運動も、その行為の原因の一つなので、その行為に対し意志が関与していると見えるのはそう見えるだけです。
その行為故に罰せられるかどうかは別の次元の話です。
 全ての現象、事象が関係関連する世界にあって個人限りの力で英雄になったり犯罪者になったりすることなんて出来ません、だから英雄的行為も犯罪も互いに規定し合い、影響し合う世界にしか存在しません。
 英雄も犯罪者も意識の外で、みんなで作った合作のオブジェですね。
 ついでの話ですが、馬が合うとか相性が合うというのは身体を構成している分子レベルの共鳴的運動を原因とするもので、観念の面からだと、身体を構成している最下位の物質の観念を原因とする上位の物質の観念が、さらに上位の物質の観念の原因となり最上位の物質、すなわち身体全体の観念となって、あるものに接した結果、共鳴的なものが現れたということですが、その結果とは原因を含んだものなので、分子レベルの観念も含んでいるため人間からすると無意識の範疇ですし、ある部分の共鳴であって全ての面で共鳴しているということでもありません。
 それから分子レベルの運動なり観念でいうと、親子愛などの献身的な愛もそうでしょう、これも分子レベルのものも含む共鳴の結果、分身関係が成り立ったということで意識や意志の次元ではありません。
 実際のところは、自然の中の個物は見えるもの、見えないもの、形なきものも全て何らかの形で共鳴し合っていますが。
 何某かの共通点がありますから。
 地震を感じるのも大地の運動と人間の運動との一つの共鳴現象とも言えるでしょう。
 どう感じるかは、それぞれの共鳴度数的なものに関係すると思われますが、大地と身体は不可分にして共通するものがあるからこその共鳴でしょう。
 共通するものの一つが自然の様態としての運動です。
 より大きな運動がより小さな運動を飲み込みますが、自然の見地からすれば同じ様態同士の運動による共鳴関係でしょう。
 ですからこの世界には個人の範疇を超えた無限の運動と無限の共鳴現象、それに対応している無限の観念があります。
 とらえ方によっては、それしかないとも言えます。
 便宜上、地震などの話をしましたが、この共鳴関係なり現象に、後からいろいろな脳内の像が結び付いたということです。
 無限の運動、無限の共鳴現象、それに対応している無限の観念等ありきで、これは自然の力の展開で一つの自然の流れ、リズムであって、人間はそこに付け足し、つまり感情で色付けされた像を結び付けているに過ぎません。
 だからカラスの鳴き声に共鳴現象を感じたわけではなく、自然の共鳴現象にカラスという像が瞬時に結びついただけです。
 共鳴関係、共鳴現象は常に存在していますが、常に意識できるものではありません、人間はその極一部しか分からず、たまたま意識上にカラスの像が浮かんだということです。
 初めに運動、対応する観念ありき、これが真理です。
 そして真理についての理解あるいは肯定を感情面で表現すると喜びになりますから、この共鳴関係のことを理解し肯定すれば自ずと無限の喜びも生まれてくるということです。
 無限の運動と共鳴現象、それらの認識も人間精神を満たすものです。
 我々は自然の運動を感じ、そしてその結果を見ています、あるいは聞いています。
 共鳴現象も自然の運動の結果の一つですが、永遠無限なる運動、共鳴関係などを認識すること自体が永遠無限なる自然の力の認識であり、その認識は永遠にして無限の世界にいる証です。
 また身体という個体を構成する諸物質の運動なり静止の状態と外部のそれとの一つの関係を、ある個体すなわちある人間がある状況下において、ある感情の下に、世俗の価値基準に合わせて、日常生活の中で、これはいいこと、これは悪いことと判断してしまうことがありますが、これは各物質間の運動の関係を世間的な日常現象と結びつけて説明しているだけで、的を得たものではありません。
 自然の物理的、力学的、化学的運動をその人間の感情や価値意識の中にある日常生活なり行為に置き換えて説明しようとするものですが、内部や外部の物質間相互の運動の状態とそのような異次元の日常の出来事の像とを結びつけても、よかったり悪かったり、泣いたり笑ったりの繰り返しに振り回されるだけです。
 身体を構成し、維持している内外の物質は波のように運動します、その波状の運動の一つの状態と日常の出来事の像を結びつけてしまうと、気分が良いとか、悪いとか意識するようになり、嬉しい原因はこれだとか、これが原因で苦しんでいるとか思ってしまいます。
 この波のような運動にも強弱があって、その弱の状態のときに限って、マイナスイメージの像が結び付き、波に脳内の像が纏わりついている状態ですね、そこに余計な思いが加わり落ち込んでしまうことはよくあるということです。
 苦が個体の原動力となっているものにとっては、楽しさの方は意識に上ほり辛いところがありますが。
 自然の運動については理解すべきもので、勝手にもてあそぶものではありません。
 物質間の運動と、ある人間の意志や意欲とは関係ありませんし、物質間相互の運動はその運動に任していた方が結果オーライということになりますよ。
 日常の行為なりに全く意味がないということではなく、その奥にこそ本質の世界、真実の世界が広がっています。
 この根源の世界こそ、あなたをして、あなたを充実した存在として肯定している世界です、そこから離れたり、飛び出すことはないですよ。
 もったいないこと、この上なしというところですかね。
 それはともかく、形としては個物間の水平的因果関係によります。
 個体として見えるのは、それを構成するものの運動状態によって、個体としての恒常性が保たれているように見えるということです。
 個体を識別するものは形や輪郭ではなく、運動比率や運動状態です。
 運動や静止のコンビネーションとか状態によって、そのときどきに個々様々なものが、形態を変え、それぞれ可視的状態になります。
 人間は運動を時間で説明しようとしますが、自然の運動は時間の中で運動しているのではなく自然自身の必然性、永遠性の下に運動しています。
 この自然の無限なる運動をある状況下、ある時点において一つの音として理解するか、あるいは視覚において認識するかはあくまで人間なり動物サイドの次元の話です。
 見えない物質、ダークマターがこの宇宙を支配しているという説もあるようですが、時間や限られた空間の中で物事を見る人間には理解し辛いことが多々あります。
 本来は形なき力と運動の世界が人間的視点において可視的になるということですね。
 むろん、個体を構成する物質等の運動と静止の比率、状態などは各個体によって違います、違うから別の個体とみなされるわけです。
 我々は全自然の一つの絵模様に過ぎませんが、一つの絵模様としてあるのは、この運動と静止の比率、状態故のことです。
 ですから、あなたが今ここにいるのではなく、固有の運動がここにあるということです。
 あなたとか田中さんとか言うのはこの固有の運動の便宜上の呼び名です。
 名前や固有名詞に意味はありません、むしろ錯覚の原因になります、それは既に感情に色付けされた不十全な概念なり観念ですから、それに名前、固有名詞は分ける必要のないものを無理に無駄に小分けにし、ものの本質、真理を隠してしまうところがあります、名前や名称、固有名詞ではなく、この物体、あの部位、この状態、あの状態として処理した方が自然を理解する上では理に適ったものと言えます。
 また運動と静止というのは論理的な言い回しで要は変化です、A→BというときAは静止、→が運動、Bは静止、変化の結果ということです。
 個体すなわち身体の本性は存在ではなく変化で、自然宇宙に同じ現象は存在しません。
 個体は常に変化し、同時に世界の現象も常に変化していますが、自然の運動とその結果が存在する以上、0コンマ000・・・1秒ごとに違う現象が、この自然の中に生じているとでも言いましょうか。
 0コンマ000・・・1秒ごとに違う現象といっても、その瞬間は世界にその現象以外に何一つ存在しません。
 同時にそれは、ありとあらゆるものを包含し、世界の限りを尽くしています。
 そこは私とかあなたとかの次元ではありません。
 私もあなたも、世界の中の絵模様です。
 その瞬間、その世界だけが、その状態、その現象だけが存在するとすれば、その一コマが全てなら、それは時間の観念から離れた永遠ということです、またその現象を限定するものも何もないので、これは無限ということです、永遠無限が超スピードでいくら重なっても永遠無限は永遠無限です。
 自然の運動そのものが個別的運動、現象も内に含む永遠無限なる運動です。
 この運動と静止のパターンは重層的且つ無限で、我々から見ると一つ集団であるものが一つの個物であったり、一つの個物が集団の部分であったり、またあるときは分身関係とうこともあり、複合か個体かを見分けるのは至難の業ですよ。
 人間の力では不可能と言えるでしょう。
 一つの群れを一つの個体と見なすこともできるわけです、例えば鰯の群れは、群れ全体が一つの個体であり、個々の鰯は交換可能な一つの部品かあるいは細胞のごときものであるとか。
 人間の身体にしても、いろんなものがくっついたり離れたりして全てが関係し合っている以上、どこまでが自分の身体でどこからが外部の物体か本当は分からない、ただ人間の脳が便宜上、輪郭や境界を設けているだけです。
 ところで全ての個体は存続維持の活動を行っていますが、ある種の鮭は産卵後に寿命が尽き、その死骸が川の栄養分となり、微生物や水生昆虫を育み稚魚などの成長を助け川全体は潤います、またその過程でクマなどに食われる鮭もいますが、これも反って川を含む森全体を潤す結果となります。
 森全体を人間身体とすれば、クマや鮭の活動は身体を維持するための細胞の活動ということになりますね。
 そうなると、どこまでが個体か分かりません、我々人間には分かることと分からないことがありますが、分からないことを無理に分かろうとすることはないでしょう、でもそこに全てを包含する自然が存在する。
 いずれにしても自然における運動の状態と個物などの結合関係のパターンは無限であり、AとBがあれば、両者の間に何某かの力が働き、新たな状態が生じ、またその状態もと無限に続いていきます。
 また、ある変化の原因は別のある変化であり、その変化もと無限に変化します、そしてそれらは、みな個別的なものです、一つの個物がある状況においては猿に見えたり、ある状況下では人間に見えたりもします、一つの個体の変化に見えても別の現象です」
 「個体の進化とか変化じゃあないのですか」
 「状態Aが状態Bに変わったということはAの要素を含みつつも、Aではないということで、卵が鶏になったと見るのは、全てを時間を通して見る極めて人間的な見方です、鶏と卵の間に分身関係があっても鶏と卵は別の現象です、そのそれぞれは、それぞれの規定を受けて、その鶏として、その卵として、その現象があるということです。
 卑近な例でいうと昨日のあなたと今日のあなたも別のものです、したがって過去も未来もありません、また個物の状態は多様な外部の個物に規定されるので、例えば一人の人間が人前にいるときとそうでないときとは同じ人間に見えても、水平的因果関係の世界では、それらは別個の現象です、他人の前では別の人間に成らざるを得ないわけです、だから、ある事柄について一人のときに思っていることと他人の前で言うことは同じじゃあありませんし、一つのことについての感じ方も違ってきます、それだけ回りの状況に規定されるということです。
 水平的因果関係の世界では全てが外部によって規定されています、規定し合っています。
 風による規定も雨による規定も全て、逆に風や雨も規定されます。
 現象は常に変化しています、回りの世界が変わればあなたも変わります、あなたが変われば回りも変わります、それが水平的因果関係の世界です。
 一つの個体の運動は水と波のような関係で、全体の運動に影響し、その逆もと、常に影響し合い、個体の形態もそれにつれて全て変化しますので、個体はあるように見えても、実際、個体の在り方は全自然の運動、無限の連鎖の結果であり、全ての個体の様はそこに還元されます。
 全ての個体個物の様はそのときどきによって変わりますが、それは時間の概念を含まない永遠の相の下での、自然の力による無限の現象の一つです」
 「昨日の私と今日の私も別ものか」
 「違う個別の現象を故意に結び付けて一つのストーリーを作り上げるのは人間の創造力と想像力の賜物でしょうね」
 「過去の私と今の私は関係なかったのか、私の歴史なんて初めからなかったのか。
 私の正体は私が考えていた私ではなかったのか」
 「あなたが考えていた他者の中での自分というあなたではなく、自然の力の分有、自然の力を個別的に表現しているあなたの本質、それが形としての便宜上のあなたではなく真のあなたです。
 あなたが自分ことだと思っていたところのある個体、ある運動そしてある観念、ある感情が自然の中にあっても。
 たとえば、あなたが座り心地の悪い椅子に腰を掛けているとしましょう。
 そこには、すなわち自然の中には椅子とその観念、あなたの身体とその観念、身体と椅子の摩擦、その観念、座り心地の悪さとその観念、そしてそれに伴う嫌な感情などが自然の中にあれば、もうあなたの出る幕はありません、必要ないです。
 感じているのはあなただと脳が判断しても、それは何かを感じているという現象そのものが自然の中にあるということで、錯覚しやすい脳の仕組みはあっても、それが直ちにあなたの存在の証明ということにはなりません。
 生きているという自覚が生命存続に有利となれば、脳は全てを主観的に処理しますから。
 自然の中に無数に点在する分子の運動結果に過ぎないようなものでも、自分のことやものとしてしまいます。
 端的に言うと自然には運動、観念、感情はあっても人間が思っている自己とか自分とかはないということです。
 運動、観念、感情なども自然の中にある以上、認識されるべきものです、しかしそれらを認識している主体があなたというわけではありません、ただ単にそれらが自然の中にそうあるということです。
 それらは特定、不特定の個物、個体上に時として顕現化し、そしてそれを個物、個体に変様した限りの自然が認識しているということです。
 ある観念とある感情が結び付き、あれは嫌だ、これは怖いとあなたが感じたとしても、それがあなたということではありません。
 自然の中に無限無数の観念、感情があり、それらの連結、結合分離もあるというだけです。
 その観念、感情の連結、結合分離のパターンも無限無数です。
 そのパターンというか観念、感情の連結現象も自分の中に現れているのか、それとも別の何かの上に現れているのか、単なる錯覚なのかも実際のところは我々人間には分かりません。
 人の痛みを自分の痛みとしてとらえることもあるでしょう、一定の状況、条件下では脳がその痛みの記憶を自分のこととして保持することもありますから。
 たとえあなたが、今自分は嫌な思いを抱いていると感じたとしても、本当にそれが自分のことなのか、本当のところは分かりません。
 その嫌な思いとされる観念、感情は自然の無限の力によって生じたもので、その観念、感情の一部分が自然の様態である個物の上に時として顕現化することがあります。
 要するに観念、感情に対する認識が自然の中にあっても、それが一体誰の認識、思考なのかは限定できず、分かりません。
 実際のところは認識する主体など存在しないということです。
 全ては主客なき全体の関連性から生じた現象です。
 自然は無限の運動とその形態とその観念を有していますが、自然の様態である私たち個物はその一部を自己流にしか解釈できない、その自己流に解釈した一部の知覚や一部の知識などのことをトータルとして便宜上自分と呼んでいるに過ぎません。
 身体的側面に限定して言うと、自然の中の物質間の無限の関係性を無視し、自然の中の無限にして不可分の物質的側面、物質的運動の一部を無理に切り取り、その一つの状態を自分の身体だと言っているに過ぎません。
 あなたが考えていた自分としてのあなたなんて始めから存在しなかったのです。 
 ただ、あなたが自分だと思っている極めて不確実、不十全な観念、思いも自然の中にはあるというだけです。
 存在しないあなたから離れると反って何か清々しいものを感じます、これは自然が自らを現しているということです。
 ですから、あなたがあなたを認識しいているわけではなく自然が有する個別的本質が自らを認識しているわけで、これは自然自身の認識です」
 「そうか」
 「また、人間は個別的本質に伴う個別性と同時に変様力も強く、この世界からあの世界に行き、この状態からあの状態へと次々に変状できる怪人百面相のようなところがあります。
 個的レベルからすると行く方向はみんな違うので、一人一人が別個の世界にいるようなところもあります。
 読書でたとえてみると道徳教本まがいの本が好きな人とか、ミステリー小説が好きな人とか環世界がみんな違うので、意識の中で共通する価値観を持つとか、意気投合するとか中々いかないものですよ、それでは寂し過ぎると言葉を駆使して、つじつま合わせや分かり合えた素振りはできるかもしれませんが。
 人はみな住む世界が違い、ゲームの世界にいる人、ギャンブルの世界にいる人、映画やドラマの世界、その他テレビのニュースやワイドナショーの世界とかいろいろで、それぞれ住む世界が違うので、まるで言葉が通じない者同士の会話のように、意志の疎通を図ることができない面が多々あります。
 ものの見え方一つとっても、個々の脳の状態はみんな違うので、一匹のネコを見ても人それぞれ見え方は違います。
 まあそのことが人間の不安定性の要因とも言えるわけですが、次々に変状し、またそのことを認識できるということ自体は、とりもなおさず無限に変様する自然と、その自然自身の認識力と人間の変様力と認識力との関係の深さなり同一性を表現していると思います。
 いずれにしても自然の中には同じ事象は存在しません。
 根源である各々の本質は自然の無限の力を個別的に無限に表現する力そのもので、それは自然の力との垂直関係の中で生じる個別的本質です。
 自然の本質は存在を肯定する力のことで、それは否定や欠陥を含まない完全で充実したもので、その本質の分有である個別的本質、すなわちあなたも本質において完全且つ充実した存在ということです。
 この個別的本質は時間空間に関係しませんし、他者他物からはもちろんのこと、如何なる制約限定も影響も受けない永遠にして無限なるものです。
 形も何もありませんが、他物の観念を含まず、それそのものとして、自然の中に在り続けるものです。
 自然は永遠無限にして唯一の実体であり、その力の分有である個別的本質もまた、永遠無限にして唯一のものであり、それは自然の永遠性、無限性および唯一性を表現するものです。
 他者との関係や比較による個別的本質ではなく、あくまで無限に変様する自然との一対一の関係、他物など何もない中での個別的本質ということです。
 個別的本質は力で、自然の個物としての存在肯定力、変状する力も含む活動力です。
 よりよく生きようとするのは、よりよくことを為そうとするのは、そうさせるこの自然の力と直結した個別的本質の自己肯定力が働いているからです、比較の観念や他物との相対関係からではありません。
 自然が自然のために為す必然的行為です。
 自然の力とは存在肯定の力であり、それは個別的本質の認識を通じて把握されますが、全ての行為に対し、自然の存在肯定力すなわち自己肯定力が働いています。
 より大きな不幸を避けるため、より小さな不幸を我慢するのも同じことかもしれませんが、ただ何が幸で何が不幸かを理解しているかどうかが問題で、世間から与えられた価値基準にしがみ付いているだけなら、そこに個別的本質と関係するものはありません、それは単なる我欲です。
 人間や動物が無意識に呼吸したり、食糧を求めるのも、この自己肯定力の現れであり、時間の観念からも外部からの影響も受けない本質的部分の展開、活動であり自然の必然的行為です」
 「同じ事象はない、人間の個別的本質、体や心は他の個物から影響を受けても本質は、それとは違うものか、うーん、ということは私は私で、私の本質は時間とは無関係の永遠ということですか、真実の世界では」
 「そのとおりです。
 俗世間に代表される他者との関わりが全ての水平的因果関係世界、自然の本質の元にある垂直的因果関係世界、個々の本質に外延的部分が付随している限り、どちらか一つというのは無理としても、どちらに重きを置くかは勝手なようですが、少なくとも後者は人を裏切らない、人を疲れさせない。
 水平的な関係世界では外部との関係が全てなので、否が応でも、必然的に常に外部に関わる何かを考えざるを得ない、本人は無意識で、はっきりした対象などないと思っていても、それは焦点が定まっていないだけで、結局は外部に対する何らかの観念から派生した思いが、いろいろと絡み合ったものでしょう。 
 対して垂直的な関係世界は個物の深層部に関わる観念の展開であり、心の奥にある自然の力の観念を対象とするもので、外部を持たないので、そのような思いにとらわれることもなく、考え疲れることもなく、外部などないので裏切られることもありません。
 それに、こちら側に立てばものの見え方が180度変わり、呪縛から解き放たれたような爽快感が得られますよ。
 垂直的因果関係世界の認識、個別的本質の認識は水平的な関係世界の中でも影響を及ぼします。
 しかし垂直的因果関係世界そのものは完全性を含み、欠落を含んでいないため水平的因果関係世界の影響を受けることはありませんが、垂直的因果関係世界の認識を含む観念、思いが日常的思考の中で現れることはあります。
 個別的本質の認識は外部の制約、他者の観念、時間の観念、また自我我欲から離れたところで成り立ちます、それを無と呼ぶ人もいますが、個物の本質、本性を肯定する中から自然に充実感に満たされるようになります、何の摩擦も抵抗もなくスムーズに、余計な考えもなしに」
 「そうか・・・・うーん、真実の世界って究極的には自然の力から生まれた物質やエネルギーの運動とか展開か」
 「根源は自然の力です、またその分有である個別的本質です、存在し、また変様する自然の力です、その力の元にあらゆるものが展開し変化しあなたや私の身体になり、またそれに対応している観念すなわちあなたや私の精神があるというだけのことです」
 「対応した我々の精神?」
 「精神というのは結局は、脳も含めた、また脳の中に刻まれた記憶と呼ばれる何某かの痕跡とか、そこから生まれる像とかも含めた我々の身体の状態の説明です、外部との関係で刻々変わる身体の状況を精神は精神のやり方で説明しているということです、簡単に言ってしまえば、身体と精神の関係は同じ現象を違う言語で、同時並行で説明しているようなもので、両者の間に因果関係があるということではありません」
 「えっ、身体と精神はつながっているんじゃあないのですか、因果関係はないのですか」
 「はい、たとえばあなたが『Aさんは階段から落ちてケガをして可哀想だ』と思ったとします、そう思うこと自体はあなたの精神の働きです」
 「まあ、そうですね」
 「ものがあるということは、同時にその観念があるということで、その観念がなければものがあるとは言えないし、ものについて考えることもできない、その観念の連結が精神の基礎をなすものです。
 それと、ものの存在は私たちの存在を前提としたものではありません、ものと同時に存在する観念も同じです、又ものが動き、運動する限り、同時に存在する観念も動き、運動します、私たちの意志と無関係に。
 しかし、私たちの存在と無関係な、その観念の存在を私たちは認識しています、これは私たちの意志とは無関係に私たちという個体上に、ものの観念が表出している状態です。
 観念がなければ思考は成り立ちませんが、その観念は実際にそのものがそこにあるということを前提としたものではありません。
 観念は観念の世界にのみ生きる、そしてその像は外部の対象や事物をありのままに反映しているわけではありませんが。
 個体上に表出した観念の像は、その個体内で加工されたものです。
 さらに加工された像の観念もまた存します。
 喩え話ですが、世界遺産や象徴が破壊され、跡形もなくなっても、人々の心の中に生きているとよく言われますが、これは当たり前のことで、我々はリアルタイムの実像を見ているわけではなく、一秒足らず前の現象も含め、過去の現象を記憶や想像力なりでもって脳内で加工した像を見ているだけです。
 人間には本当の世界は中々理解できない、他者の何たるかも知らない、己の観念の中での己の世界しか見出せない、人間はものについて考えているわけではなく、その観念について考えているわけで、記憶なども作用した中で脳の中で作られた像の観念をある感情の下に眺めているだけです。
 まあ、これだと、小説もドラマも、日々の人とのふれあいさえ、あったもんじゃあないので、中々認めようとしないと思いますが、真理は真理です。
 でもその中で、ある数の他者と共通する思いなどがあれば、それが一般概念となり、そこに一つの価値意識が生まれます。
 身体はそれに対応している物質的状態です。
 でも、その像やそれに関連する像の観念の連鎖により人間は考え、また行動に移そうとします。
 Aという観念がBという観念と結び付き、Cというものを知覚し理解する、そしてまた・・・と無限に連結していく、この観念の運動が精神を構成しているものです。
 A、BとCとの間に必然性があればそれは十全な真の観念ということになりますが・・・。
 十全な真の観念というものには中々出会わないもので、脳内でそれぞれ加工したもの、十全な真の観念の一部なり断片をつなぎ合わせたものが多いですから。
 観念というものは自動的に運動します、観念を理解しているのは観念です、先行する観念が原因となって結果を理解する、その観念もまた・・・と無限に連鎖していきます、考える主体などいりません、物質が意志とは関係なしに運動するように、人間がもてあそばない限り観念も。
 観念も物質同様、結合分離を繰り返し縦横無尽、重層的に運動、展開し、また種々の感情とも結び付き様様な思いとなって、この自然の中に存在し、局所的に顕現化します。
 意識的にしろ、無意識にしろ、身体が何らかの刺激を受け反応すると脳内に何らかの像が生じます。
 この像というのが曲者で、像が生じるとは身体の変状を意味しますが、いつ、どこで、どのような像が生じるのか、意識の上に現れるのか、その理由の理由、根源的第一理由、それは分かりません、周囲の温度、光、音、振動、景色、風景などの要因が作用して脳内の何某かの像を刺激し、その像が何らかの形で活動している状態かもしれませんし、相手が人間だと、その声のトーン、表情なども要因かもしれません、その他、見えるもの、見えないもの、想像すらつかないもの、ありとあらゆるものが要因となっているのでしょうが本当のところは我々の理解を超えています、どんな像がどの状況の下に生じ、どの像と結び付き、どんな物語として登場するかは人間には分かりません。
 全自然の運動の結果としかいいようがありませんが、ある像が生じると身体全体がある方向に向かいます、それに平行して精神も動きます、その段階で多数の別の像の結び付きもあるでしょう。
 最初の像に連想ゲームのように別の像が次々に結び付いて行きます。
 これらの現象のスピードは速すぎて人間にとっては無意識の範疇です。
 あるいは自分の意志の問題ととらえてしまいます。
 そしてその像に対応する観念も自然の力として、同時に生じますが、その像の観念を認識していることも、自然が自らの力を認識しているということで、様態である個物にとっても、自然を、自然の力を認識していることなので、これもまた精神に喜びをもたらすものです。
 またその観念が別の観念や感情と結び付き、一つの思いなりが生じるということですが、これは観念の運動形態の一つであり、自然の運動結果としてのものです。
 観念、感情の連結が思いとなり、個体内で加工された状態で顕現化します。
 この運動についても理解、認識しているということは、精神が真理を認識している状態で、精神は満たされ喜びに包まれています。
 自然の運動の奥に在る無限の力の認識であり、無限の喜びに包まれるわけですが、私たち人間はこの観念の全ての運動や連鎖を理解することはできず、常にその結果だけしか分からないので無限の喜びとは縁遠い状態の下、自分の意志で考えていると錯覚するわけです。
 観念がないところに意志は存在しません。
 感情にしても、愛され、憎まれ、避けられ、望まれたりするものの観念がなければ存在し得ません。
 意志はその観念についての肯定ないし否定のことです。
 余談になりますが、最近では人間の行為も思いもDNAと環境との関係で決定されるという説が有力なようですが、もしそうならそこに意志が関与する場はないはずです、意志はあくまで一つの結果に対する判定以上のものではありませんが、人間はそこに次元の違う期待感などの感情、欲望を結び付け、それを人間の、個人の意志と呼んでいるだけです。
 もっともDNAも環境もそうなる原因がありますから、それで全てを説明することはできませんが、そこに意志が関わっているとは言えません。
 次元なり範疇が違い過ぎますから。
 観念のことに戻りますが、観念は物質と同じように、自然の中にあり、そしてその観念に対する観念も自然の中にあります、我々が自己とか自我とか呼んでいるものは、観念の観念の現れ、つまり自然の中にある個別的本質に関する観念自身の反射作用が局所的、部分的に現れたものであり、これも自然自身が放つ現象です。
 人間は自然の中に現れた現象を我が身のことと錯覚する生きものなんです。
 だから自己とか、自己意識というものは、自然自身が個別化、限定化した限りの個物としての自身の姿を認識しているということです。
 意識は全て感想のような事後の現れです。
 意識はいつも遅れてやってきて、勝手に事象現象の原因を作ってしまいます、これは人間の錯覚です。
 意識がやってきたときには、世界はもう別のものに変化しています。
 自然の力の表現である自然の運動、そしてその結果の一つである像や観念、感情などは意識を前提としたものではありません、それらは意識の有無に関わらず存在しているものです。
 後から身体の状態なり脳の観念となって、人間ははじめてそれらの存在に気づくということです。
 それに今のこの意識は今のこの外部世界との関係上生じたもので、この外部世界が変わればこの意識もあの意識に変わります。
 また意識は生存との関係の中での生じたある種の幻覚と言っても過言ではありません。
 観念は言葉ではありません、言葉は身体の運動の結果です。
 身振り手振り、表情などと同じ次元のものです。
 その言葉が脳内に蓄積された像を刺激し、その像の観念と感情が超スピードで結び付き、喜んだり、悲しんだり、感激したりしますが、これは身体に刻み込まれた痕跡すなわち記憶の中の言葉や像についての観念と感情との一つの関係の現れです。
 景色や絵を見て心が動く、音や音楽を聴いて感情が高ぶるなども同じ現象と言えるでしょう。
 観念は物体でも身体でもなく精神です。
 Aさんという観念、階段という観念、傷という観念、落ちるという運動の観念などがあなたの脳の中で連結し、それに「可愛そう」というあなたの感情が加わり「Aさんは階段から落ちてケガをして可哀想だ」というあなたの思いとなったのです。
 十全な観念の連結なら負の感情は付随しませんが、観念と感情は結びついて互いに強め合おうとします。
 実際Aさんは階段から落ちましたが、あなたの脳内に生じたそのことについての像は、自動的に脳内の記憶を司る部分などを刺激し、連結し、あなたの身体は変状しますが、これは精神ではなく身体の働きです。
 精神の面からだと、それらの観念に感情が結びついたということです。
 感情も身体の一つの状態の説明であり、精神の活動の一つです。
 つまり物質である身体は身体で、観念である精神は精神でそれぞれ活動します。
 不安感は身体の面からだと、体内脳内のある物質の状態で、その原因は内部外部の物質、また脳内の像の運動、関係、状態です、精神の面からだとそれらの観念の運動、関係、状態です。
 ですから精神と身体の関係は因果関係というより平行関係です、自然界で起こった物理的現象、身体の状態を観念と感情という別の方法で説明いているのが精神です」
 「そう言われると・・・なんだか精神って面白いですね、感情も・・・ですか」
 「人間の体は原子から分子、分子から細胞、細胞から肉、骨、臓器というように、それぞれの階層において個物が協働して、上位の個物を作り上げ、その上位の個物も協働して、そのまた上位の個物をと、個物間の協働の関係は重層的に展開していき、そして人間身体が作られますが、そこには、その協働する力とそれを維持しようとする力があって、感情は本来その維持しようとする力、個体性を維持し、強めようとする力の一つの現れです。
 自然の中に何某かの個体が存する限り、自然の中に何某かの感情も存在します。
 ですから感情と雖も、自然の力の一定の表現ですが、感情を大きく分けると喜びの感情、悲しみの感情となり、喜びの感情は人間の存在力の維持向上、増大を意味し、悲しみの感情はその逆への移行を意味します。
 ですから精神の中で喜びの占める割合が大きければ大きいほど、その精神の充足度は高いということです。
 存在の肯定が喜びで否定は悲しみです。
 身体面からだと、喜びは、身体の維持にとってより円滑な状態への移行ということです。
 良いこと、悪いことといっても、結局は喜びないし悲しみのことです」
 「じゃあ悲しみの感情なんてなくてもいいのに」
 「そうです、個体の本性からして不自然、不必要なものです、でも世間的な価値観が渦巻く中では過度の喜びを押えるという意味で必要かもしれませんね、調子に乗り過ぎると後が怖いですから」
 「そりゃあそうですけど」
 「水平的因果関係の中で生きる人間にとっては、喜び過ぎてハイテンショが続くのも精神的負荷が大きく、生存維持という面からだと必ずしも好ましいものではないので、人間の脳はバランスを取るため、反対の感情を引き起こすためのいろんな像を脳内に作り出します、あるいは生存維持のためには必要である、日常的にも悲しみの感情なり不安感はあった方がいいと脳が判断すれば、身を守る自己保存のために誰しも漠然と抱いている先天的ともいえる不安感などにいろいろな像を結びつけ、悲しみの状態さえも常に維持しようとするでしょう。
 未来や過去の想いなどを総動員してね、未来や過去の想いの中の像を駆使しないと中々悩むのは難しいですから。
 必要とあれば、夢まで動員しますよ、今は不幸じゃあないのに夢を見るのが怖いということはよくありますよ。
 また、脳が悲しみなり苦を行動の原動力と見なす限り、今の生活と直接関係のない、世界の出来事、あるいは趣味、娯楽の範囲まで取り込み、悲しみの状態が常に保持されているよう働きかけますよ。
 その他何でもありですよ。
 Aという像の効果がなくなると今度はBという像を結び付けます。
 ですから何か一つ解決するとまた問題がと悩むのはこういうカラクリですよ。
 何をしているか、するかなんて関係ありません、要はリズムの問題で人間的視点での日常の行為で言うと、課題、対応、処理、課題・・・という循環運動、サイクルのこと、これはどこまでも続く到達地点のない道で、みんなその道を歩いているだけですよ。
 ですから、その課題、対応、処理、課題という運動なりリズムなり流れに人間の脳が特定の像を結びつけるということで、可視的な具体的な像がなければ人間はより不安感が高まりますから脳による救済措置として、いろんな像が流れの過程で生じてきます。
 もちろん課題、対応、云々は人間サイドの表現です、自然からすると一つの運動、リズムに過ぎません。
 宇宙の運動形態とか運動法則と同じですよ。
 これは以前話した共鳴関係、共鳴現象と脳内の像との関係と同じことです。
 最初にその流れありきで、今これこれのことをしているという人間の思いは便宜上の脳の働きの一つで、実際は人間が歩いているこの道は自然の運動の一つの現れです。
 この自然の運動に対応して、自動的に身体、平行して精神も運動しているということです。
 特定の可視的な像がなくても、無意識の中でも道は続きます。
 人が道を作ったわけじゃあなく、道が人を産む。
 歩いた結果がそうなるというより、歩きそのものが課題や対応で、これは生きようとするものの必然的な形です。
 人間的視点での課題や対応といっても、それそのものは自然の運動形態、一つのリズムであって苦というものではないけど、人間はそこに、これをやるよりあれの方が良いとか比較の観念を引き出したり、いろいろな像を結び付けそれを苦ととらえる。
 こうして喜び、悲しみが一方に偏らないようバランスを取ります。
 これらは脳の働きとしては本来性に適ったことと言えますが、折角の脳の働きも当の人間が多様な欲望が渦巻く世界の中にあって、その本来性からかけ離れた生き方を強いられているので、その脳の働きも結果として、身体全体のバランスを崩してしまい、平行して精神にも支障が生じているというのが現代人の姿でしょう。
 とはいうものの本来、喜びの感情は本性に適ったもので、感情としては一つの完成形です。
 これに対し悲しみの感情は未完成、何かが欠落した状態なので、それを補うため何かと結びつこうとします。
 これは感情の特質というか感情の運動形態ですが、喜びの感情はそれ自体、完成形ですから結びつく必要性などありません、したがって悲しみの感情は悲しみの感情と結びつき、より強められ、その結果存在力は益々低下していきます」
 「負の連鎖ですね」
 「そうです、その他、感情の置き換え、かつて、あるものに遭遇したときに抱いた感情は、その遭遇したものに多少似ているものに対しても同じような感情を抱きますし、かつて遭遇した対象物から連想できるもの、またその傍にあったものに対しても、同様の感情を抱きます、同様の置き換え現象、感情の法則ですね」
 「感情の法則か、でも喜びの状態を維持し続けるのは難しい気がしますね」
 「意識する必要はないですよ、喜びは本来性の確保であって、その本来性に反する感情から離れていること、悲しんでいない状態のことです、それだけですよ、意識の問題じゃあないですね。
 日常的なこととして言うと、これをすれば精神が落ち着かず不安定になると思われることは、初めからしない、悲しみの要素を含むものには接しないことです、期待感などは内に悲しみを含むものです、またいい加減でくだらない情報にはふれないことです、昨今は見てきたような嘘や勝手な憶測、滅茶苦茶な解釈が氾濫し過ぎていますから、この罠にはまると不安感や嫉妬、怒りなどから抜け出せなくなりますので。
 それから喜び楽しみがピークになる前に離れる、完璧を求めない、完璧は結果であって最初に求めるべきものではありませんから。
 これについては、実はちょっと足らないかなと思うくらいが、反って崩れない本当の完璧ということなんです。
 真に完璧なるものは人間には何か足らないように思え、見えるものです。
 それらのことを自然のリズムに乗る感じで、理解認識いていれば自ずと余裕が生まれ、穏やかなさ中で喜びが維持されますよ、だから苦しみに耐えるというより、ただリズムに乗っていると感じた方がいいですよ、自然のリズムに乗っている限り安泰ですからね、自然と自然の力を認識している限り、喜びは離れませんよ」
 「初めからやらない、始めからピークや完璧など求めない、意識にこだわるとダメか」
 「喜びや喜ぶことを意識しすぎると、自己保存の欲求に付随する生得的不安感情との関係からか、脳はこの状態を良しとせず、反射的にセーブをかけ、バランスを取ろうとしますから、むしろ悲しい、苦しい振りをして脳をだますくらいがいいですよ」
 「だましのテクニックか」
 「外から一定の刺激を受けると鏡に像が映るように脳内に何某かの像が生まれ、身体はそれに反応します」
 「鏡に映る像?」
 「鏡に像が映るのは一つの物理現象ですが、同じように何某かの刺激を受けると脳内に像が生じ、そして身体は自動的に動き出します、精神の方からみると、この像に対しての観念があり、その観念にある種の感情が結びつき、求めようとする対象、避けようとする対象の観念が生じます。
 ですから、愛とは外部の特定の対象物の観念を伴う喜びと言えるでしょう。
 でも滅びゆくものを対象とする愛は滅びゆくし、不安定で相対的でしかない外部のものを対象とする限り、愛すなわち喜びも不安定で相対的な感情でしかなく、憎しみや悲しみと表裏一体のものでしょう、それらを求め続けても決して満足することはないということです、
 同じ愛、喜びでも自然の本質、個物の本質を対象とする限りは相対的ではなく、滅びゆくようなものではありませんが。
 この自然や個物の本質を愛するということは自然の力によって形成された個別的本質の現れである個々人の本性を肯定し、愛することに通じています。
 それは唯一の実体である自然が自身の力の分有であるものを愛する形の現れです。
 脳内の雑多な像と何某かの気分を一旦隅に追いやれば、固有の本性が現れます。
 自然が唯一であるなら個々の本性も唯一で、この唯一のものを愛さず、目移りするのは己の本性ではなく他者の本性を愛するということです。
 他者や他人の本性を愛したところで、得るものなど何もありません。
 比較の世界に引きずり込まれ、精神は行き場を失い、死ぬまで、いや死んでからも落ち着きのないおどおどした状態、かきむしられる状態が続くだけのことです。
 日常が他者の観念から離れた自由な本性の展開というのが自然です。
 もちろん本性を愛するといっても自由気ままで放蕩状態にいるということではありません、その個体そのものの持つ傾向性を認識、理解し、その個体なりの充実安定感、爽快感、安らぎなどを求める個体の性質を愛するという意味です。
 愛とは外部の特定の対象物の観念を伴う喜びのことなので、それを身体の状態の面で説明すると、これは身体を構成する諸物質相互の運動比率が身体全体の保存維持に適っている状態のことで、そういう意味ではネコにも愛、喜びがあります。
 愛は喜びの一つで動物の繁殖行動そのものとは違う次元のものです。
 繁殖、生殖行動は種や群れ全体を一つの個物と見なす限りの生存維持活動ですが、人間はそれを類い稀な想像力で脚色し、愛とか恋という概念を作り上げたということです。
 欠乏感、欲求不満に対する見せかけの応急処置のようなところもありますが、それ自体は特に面白いことでも何でもありません。
 まあ人間の場合、一般的には脳の中で作られた像の観念は感情と結び付き、何かを得ようとしたり避けようとしたりします。
 つまり何らかの刺激により身体が反応し、その刺激は外部からのものはもちろん、脳内に蓄積された像同士の触発関係によるものも全てです、いずれにしても、その刺激により脳内に何某かの像が生じ、その像の観念にある種の感情が結び付き、精神は瞬時にある行動を起こす状態に移行し、同時に身体もその状態に変状するということです。
 こうして人間は生存維持を図っています。
 感情がなければ何も記憶に残らず、何もなかったことになり、生存維持もおぼつかなくなります。
 感情は存在力の向上低下に関係しているものです。
 まあ通常は何かを得ようとしても中々手に入らない、また避けようとしても簡単にはいかないので苦悩などのマイナス感情が行動の原動力になってはいますが、人それぞれ神経細胞などの身体の構造は違いますので平行して感情も違います。
 結果、求める対象もそれぞれ違います。
 各個体によって身体や脳の構造、神経細胞などの状態も違い、それによって行動とか、また感情なども違い、人さまざまということになりますが、そんな状況の中でも多数派、少数派という概念規定が生じます。
 身体の構造や状態は人それぞれ違うもので、これは当たり前のことですが、その差異に関して、それが多数派のものと比べて、大きいと見なされた場合、障害者と規定されることがあります。
 体の作りはみんな違うので、本来は多数派なんて存在しませんが、便宜上作られた基準の下に、一定数の人は健常者という多数派に組み込まれます。
 これはあくまで社会保障や福祉政策上の規定で、体の構造は一人一人違っており、その差異の部分に関しては、それぞれがそれぞれからすると障害を持っているということにもなります。
 健常者とされている人でも、実際はみんな何らかの障害や病を抱えていると言えるでしょうが、たまたまその症状が目立たないか、一定の基準に合致しないので、ただ単に社会や組織の中で、能力不足とか適応力に欠けているとか、変な奴とか一言で片付けられているだけでしょう。
 それはさておき、そこから少数派と規定されたものは、一定の価値基準、方向性に支配されている社会にあっては、その時代、その世界において弱者とみなされ、様々な偏見、差別を受ける結果にもなります。
 身体等の差異だけのことですが、当たり前のことでも、多い者勝ちの社会では、不自然な状況が生まれてしまうのも事実です」
 「何だか寂しいというか、暗くて先が見えない感じ・・・・」
 「それに同じ対象でも人によって感じ方も変わります、受け止め方の違いが幸不幸の分かれ目になったとしたら世間の幸不幸なんて実にいい加減なものということになりますね」
 「そうですね、ありそうなことですね」
 「感情はその人の脳神経も含めた身体の構造と外部のものとの関係で生じまた変化します。
 関係といっても身体との平行関係ですが、その関係の下に変化します。
 その変化は物理現象、化学反応ですよ」
 「私の感情も身体の構造と外部との関係ですか」
 「はい、あなたが過去の世界に行った時、ちっともよくない、今と変わらないと感じたのは、身体の状態つまり、記憶と呼ばれているある現象の痕跡、精神的観点からだと、その痕跡についての観念を、ある感情が外部のものに対する観念との関係の中で実際とは違うように塗りつぶしましたが、現実はそれとは関係がなかったということです」
 「だからですね、そういうもんですか、でも感情は誰にでもあるものだからどうしようもないですね、真実の世界にはないのですか」
 「感情は存在力肯定のバロメーターみたいなものです、存在力を高めるものが喜びの感情、その反対が悲しみの感情、真実の世界は本質的に存在を肯定する世界なので、否定する悲しみの感情はありません、不安、恐怖、絶望、空虚感、後悔、卑下、嫉妬、憎しみなどの悲しみの感情は全て存在力を否定あるいは低下させる感情で他者、他物との比較関係の中で蠢いているこの世とか、この社会とか言われている世界の中だけのことです。
 また焦り、焦燥感や怒りなどの感情は過度なストレスをもたらすもので、何をするにしてもこれらの負の感情を持つこと自体、禁物ですね、不幸の坂を転げ落ちるようなものですから。
 真実の世界とあなたが行った天国と近いものを感じられたでしょう」
 「ええ、天国では先生が言われる悲しみの感情は感じられませんでした」
 「ある出来事について、あなたが嫌な感情を抱いたとします」
 「はあ」
 「あなたが嫌な感情を抱いた理由は何だと思いますか」
 「その出来事ですか」
 「そう見えますね、でも何故、どうして、その出来事について嫌だと思うのか、実際あなたがそれを嫌だと思うようになったのは、元々は何か別の理由があったからでしょう、その理由もまた別の理由からと無限に続いていきます、その過程で置き換えや錯覚もあったかもしれません、またその出来事の方も、無限の関係の中で、何かの理由によってそうなったということです、つまり刺激を受ける方も与える方も無限のつながりの中での一つの結果です、私たち人間はその無限の連鎖については理解も認識もできませんし、それにその出来事が本当に悪いことなのか、結果としては良いことなのか、それも不明確で分かりません、理解できません、でも今、嫌な感情を抱いているということは確かです、でも嫌なという部分については理由が不明確で、理解には至りません、だったら理解できないことから離れ、理解できていることだけに注視すればいいことです。
 人間は無限の横のつながり、水平的因果関係ついては理解できず、理解できなければ認識には至りません。
 原因も理由も結果も分からないことは思考の対象外です。
 しかし何かを感じているという事実そのものは理解できます。
 これは感じる力の認識であって、自然の力の展開についての認識であって、自然の力とあなたの感じる力が垂直につながっているということで単純明快、理解、認識可能なことです。
 感じる力とは個物が何かに反応し、身体、平行して精神が変様することを意味し、自然の働き、自然の変様する力そのもののことです。
 感じるとは身体の変状の観念を無意識にしろ認識しているということです。
 意識、無意識に関わらず、人は四六時中、何かを感じているけど、好き好んで感じている人はいない、自由に何かを感じることはできない、個人を超えた力が働いているということ、それは意識や言葉以前のもの、この感じるということがなければ何も始まらない、何も思うこともない。
 精神は対象云々ではなく、この感じているという事実、何かに反応している事実、これを自然の働きとし、自然の様態としての己の働きとして肯定し、我がものとするでしょう。
 自然の様態とは、自然の中の全ての触発関係の下に反応する物質である身体、それに平行する観念、精神のことで、実体である自然の在り方、在り様を一時的に一定の仕方で表現するものです。
 無限に個物に変様する自然は同時に個物間の無限の関係性の原因でもあります。
 全ての現象事象は、この自然の関係性の中で生じます。
 何某かの関係の下に一定の行為が生まれます。
 我々はこの関係性の中で生まれ、動き、消えて行くわけですが、いかなる変状、刺激、触発などに対しても、快活性を保持しようとする精神の能動性は精神自身の働きによって担保されています。
 これも自然の力です。
 精神の能動性、精神の咀嚼力というところかな、何でも快活に楽しみとして身につけていく。
 精神をして、そうさせるものは存在を肯定する精神の力、すなわち、ある観念です。
 自然の力を、変様する力を肯定する観念です。
 それは個物の本質を対象とする観念です。
 個物の本質の観念は、他物の中にはなく、その個物そのものの精神にあり、それ故自然の様態である個物は己の本質を認識し自覚します、これは精神の能動であり喜びです。
 一つの観念、認識が精神を満たします。
 この個別的本質の認識は時間空間の観念を保持したままの精神の中にはなく、自然が有する永遠無限の観念を通じて認識されます。
 個別的本質は自我や個性といったような空概念ではなく、それ自体、一個の充実体として自然の中に存在するものです。
 この己の個別的本質にふれたときこそ最高の瞬間でしょう。
 個別的本質が自然における完全なる充実した存在である以上、その観念も完全で充実したものであり、この観念が精神の中心にあれば完璧で付け足すものはないということです。
 この本質の認識が精神を完全に満たします」
 「時間空間にもとらわれず、自由にたくましく、能動的にものごとに接していくということですか」
 「それが私たちの唯一のなすべきことと言えるかもしれませんが、ついでに言いますと、もしあなたが嫌な感情を抱いたら、一旦原因と思う外部の対象から離れ、嫌だと感じている身体の内部に注目してみてください」
 「どうやって」
 「外部の対象から離れた上で『今自分は嫌な感情にとりつかれているがこれは一体何か、外部の対象は関係ない』とか思えばいいだけです、一方から離れると一方に近づきます、外部から離れると内部に近づきますから、勝手にあなたの奥の奥の内部、自然の生命力の分有である部分、すなわち本質部分に意識が移り、あなたのその内部には、その嫌な感情も原因となる像も何もないことが分かります、何もないのに落ち込んだり、悲しみの感情にとらわれるのは、外から来たものに対する誤った対応、不十全な認識か、あるいは錯覚か何かの理由や原因によってその演技を強いられているからでしょう。
 要は外部のものに対する観念を不必要に加工してしまったということです。
 また過去とか未来のことから離れると時間を超えた今のあなたしか感じなくなりますが、そのあなたこそ永遠の世界のあなたで、真のあなたです、個別的本質の認識から、この瞬間、今のこの全てを肯定するものは永遠の世界にいるということです。
 「今のこの全てを肯定するって、今の私の境遇や置かれている立場とか全てをということですか」
 「いいえ、全然違います、そんなものは関係ありません対象外です、あなたが今立っているのか、座っているのかさえも関係ありません、泣いているとか、笑っているとかも、そんな状態、状況は瞬く間に変化し、在り続けることはないもの、それに見る見える条件状況によって変わるものです、永遠性と関係ないもの、そんなあなたの本質とは無関係なものを剥ぎ取った全てです」
 「何もない今のこの全てを、ですか」
 「そうです、何もない今です、あなたが何かを持っている、何かに関わっているということは、それはその場所、その時間において、その何かに限定、制約されている状態で、これは永遠無限の状態と相反するものです、だから永遠無限の世界とは何もない世界です。
 ここにこうある、それだけの肯定すなわち個別的本質の認識、肯定です、そこは運動と静止、あなたの本質だけが存在する世界、その中であなたは永遠を感じます。 
 永遠性の観念を阻害するものは時間の観念と他者、他物に関わる観念です、時間、他者他物の観念がないところには自分というものに関わる観念もありません。
 あるのは永遠に広がる世界の観念だけです、自然が有する自然の観念です」
 「そうか・・・・・」
 外部や過去とか未来から離れ、身体のことを忘れると新たな世界、真実の世界に遭遇し、最初そこは何もないように感じるかもしれませんが、ただ微かに何かを感じる力だけがあることが分かります、そこが重要です、その瞬間からあなたは嫌な感情から離れると同時に逆にある種のやすらぎを感じます、内部には何もないと言ったのは喜びもどきの感情でも同じことです」
 「喜びもどき・・・ですか」
 「何かを見て喜んでいるとき、あなたを喜ばせていたと思われる外部の対象から一旦離れると、あなたの内部にはその喜びもどきの感情もその原因も何もないことが分かります」
 「内部には何の感情もないということですか」
 「いいえ、ないと言ったのは外部の対象に関わる悲しみの感情や先ほどの喜びもどきの感情で、外部の対象から離れると人間は違う次元の喜びを感じることができます」
 「違う次元ですか」
 「ある力が働けば、反対の力が生じる、これは自然宇宙の運動法則の一つですね。
 同様のことがよく言われます、満腹になりたければまず腹を減らせというように、楽しみたければ、まず苦しめ、悲しみがあって喜びがある、また喜ばせるものが悲しませる、楽しませるものが苦しめる、喜びや楽しみがピークに達すれば悲しみや苦に形を変えるというのは、この世の法則のようなもので、それはそれでいいし、当たり前の話ですね、あなたもいろんな場面で経験されたように。
 まあ、水平的因果関係世界では良いか悪いかではなく、良い悪いのバランスが全てということですね」
 「それとは次元の違う感情ということですね」
 「ええ、相対的受動的な感情ではなく、ここでいう感情は、誰もが持っている生命活動の根源と言うか、個物にも及んでいる自然自身の存在肯定力を原因とする感情です。
 外部のものの観念を含まない、すなわち外部のものに規定、隷属されるような受動的なものではなく、固有の精神の肯定的且つ能動的な活動でもあります。
 精神はこの精神自身の能動的な働きに満足し、より大きな喜びを得ます。
 これは本質にふれる喜びのことで、真の喜びと言えるものでしょう。
 本質にふれることで負の感情も喜びの感情に加工され蘇ってくるのを感じますよ。
 個別的本質は自然が有する個物そのものを肯定する力で、それは個物において喜びという形で表現されます。
 この喜びは自然の肯定、存在の肯定、自己肯定の表れで、決してゲラゲラ笑うことではありません。
 喜びは外ではなく内にあったということがわかりますよ、その喜びと外の対象を結び付ける必要なんてありませんよ」
 「それで嫌な気分など一掃されるのですか」
 「気分ねえ、好悪の気分なんて一定の周期で現れる身体の現象の説明ですよ、それ以外の理由なんてありませんよ」
 「何で嫌な気分になったか必死で探すときもありますよ」
 「身体がある限り、吸って吐いてとか、伸びて縮んでとかの作用反作用や強弱運動は付いてきますよ、我々もその一部である自然自身がそうですから、人間身体も自然の一部である限り運動なりは必然的なもの、人間はそれをいい気分だとか悪い気分とか言っているだけですよ。
 本当は良いも悪いものないのですが。
 感情で加工した脳内の像、像の観念なり何らかの観念を、そこに貼り付けている状態ですよ、貼り付けなければ、呼吸と同じで、ただそこに自然の強弱運動、一つのリズムがあるだけ。
 無限のパターンである自然の運動に像や観念を貼り付けるのは人間の仕事みたいなものかもしれませんが。
 人間身体も像も観念も自然の無限の運動から生じたもので、その認識はあっても、そこに貼り付ける必然性などありません、それが仕事だとしても、ちょっとその仕事をサボってみるのも」
 「そうですね・・・サボってみようか」
 「貼り付けなければ、清々しい無の状態になるだけです、それこそ永遠の世界ですよ。
 問題は気分が悪いと感じたときに限って人間は、そこに立ち止り、原因や理由づけを無理にしてしまうということです、単なる気分に過ぎなかったものに、あれこれの像が重なり、心に重くのしかかるようになります。
 そうするとそれはもう気分というより苦悩となり、あれが原因で落ち込んでいると悲しみを感じます。
 あるいは落ち込んでいる原因が分からない場合でも気分を変えようと余計な算段を施し、結果的にまた落ち込んでしまうという悪循環に陥ることもあります。
 そんな気分なんてすぐに勝手にどこかに消えていくのに、わざわざそれを引き留めて、無理に原因をこしらえたり、無駄な処方箋の副作用で、無理に悩んでいる。
 でも落ち込んでいる本当の原因は、その思いに先行する別の思い、つまり外部との関係から生じる想像知、不十全な観念の連鎖です。
 あなた自身、あなたの内部そのものには否定的な感情などありません。
 ついでに言いますと、嫌な気持ちに陥ったときこそ、その内部に入るチャンスです。
 嫌だと感じた瞬間、反対側の扉が開きます」
 「ふーん、たださっきの喜びまがいの感情ですが、会社なんかで人を裏切ったり、貶めたりして悦に興じて喜んでいる人とか、それと大儲けして喜んでいる人とか、いますね、これなんかは?錯覚ですか」
 「本当の喜びじゃあないですね、万一それで本当に喜んでいられたら、いいかもしれないが、それは無理ですよ、その背後にある負の感情は消えませんよ、原因としての悲しみの感情は残り、また喜びまがいの感情はすぐに悲しみの感情に転化しますから、よくない感情ですね。
 今仮に復讐を成し遂げて喜んでいるとしても復讐はどこまでいっても憎しみという悲しみの感情です。
 人を騙し、脅し透かして事を成し遂げても、それらの行動は不平不満、不安、恐怖、嫉妬憎悪などのマイナス感情の延長上にあるものです。
 そのマイナス感情は事を成し遂げた後で消えるわけでも、プラスの感情に変わるわけでもありません。
 マイナス感情は変わらず脳の中で生き続けているわけですから、喜びの感情を持つことは不可能でしょう、表面上はともかく、内心では悩み苦しみ続けることになるでしょうね。
 それと誰しも大金持ちに憧れるかもしれませんが、その理由は、望むもの全てが手にはいるから羨ましがるわけじゃあなく、実際望むもの全てを手に入れることなど不可能ですから、そうじゃなく、豪邸で楽しそうな表情でくつろぐ大金持ちを写真やテレビで見た人は、その表情なり容姿から何らかの刺激を受け、瞬時に脳の中で、楽しんでいる人の像やくつろいでいる人の像と豪邸という像と金という概念と幸福という概念などを結び付け、それを記憶や羨望や嫉妬などの感情とで加工し、でき上った像、つまり作り上げた金持ちの像の観念を己の欲望の対象としてしまいます。
 金持ちが欲望の対象ではなく、あくまで脳の中で作り上げた像の観念こそが欲望の対象です。
 これは不安や苦悩にさいなまれた人間が、そこからの脱却を試みる一つの方法で現実を空想で覆う欲望の肩代わりです。
 もし大金持ちが苦悩にまみれた表情をしていたら、欲望の対象にはならないでしょう、本当はそれなりの苦悩があっての大金持ちのはずです。
 まあ、お金に価値を見出すのは、価値基準を有形化し、そこに順位をつけた方が目的がはっきりして安心できるという思いからでしょうが、実際は安心どころが順位をつける方もつけられる方もしんどいだけですが。
 世間の人たちはどうも、自分たちが勝手に作った価値基準の中で、もがき苦しむのを日課にしているようですね。
 今までの労苦もさることながら、大金持ちご本人は、世間からの『よく頑張った』という評価よりも『いやもっとできたはず、もっと違うやり方があった』というご自身の思いの中でいつも葛藤し苦悩にまみれていても不思議なことではない。
 世間が想像するほど本人は幸せとは思っていないでしょうね。
 写真やテレビじゃあそこは提供しませんから、元々テレビなんて、刺激を快と錯覚しがちな脳のシステムを利用して、誇張や脚色を施して見る方に刺激を与えて視聴率を稼いているだけですから」
 「刺激そのものが快になっているわけですか」
 「そうです、ここで言う刺激とは我欲のことで、特定の外部のものを対象とし、その外部のものに賭けるというか期待する欲望です。
 対象物そのものが刺激的というわけではなく、個々の脳の判断、そのときの脳の状態により、対象物が時として、刺激的に見えるだけのことですが、この状態はかなり厄介ですよ。
 刺激といっても相手次第なので、精神の安定は望むべくもなく、常に不安やイライラと隣り合わせにいる、己の目標と欲望と現実との間に立たされ、わけの分からない状態になり、それでも体裁を構うため、やけくそになりながらも、これでいいと言わんばかりに、何かしらの演技を強いられる、これはきついですよ」
 「そうでしょうね」
 「生きている限り、先程の欲望とは質が違うものの、ほどよい刺激が勝手に訪れるというのに、現代人はそれが待てない、行為行動に薬剤耐性菌のように、慣れてしまう。
 『またこれからも同じことの繰り返しなのか』という人間の見当違いの想像力が拍車をかける、同じ現象などないというのに。
 そう見えるのは錯覚の一つ、よくよく見ればみんな違う現象。
 同じに見えるのは狩猟時代に培われた見方からくるものでしょう。
 飽きたり慣れたりすると、今までしてきたことが面倒くさくなり、嫌になり、すぐに新たな刺激を求め、退屈するとまた刺激を求める。
 だから、これは嫌あれは嫌というのは、本当はこれやあれに飽きた、もっと違う刺激が欲しいという場合が多いですよ、もっとも違う刺激といっても同じことですが。
 じっとしていれば、それが一番いいのに、じっとしていても適度な刺激は勝手にやって来る、それだけで十分、それで遊べば十分、そういうふうに人間を取り巻く環境も人間の身体もできているのに」
「でも、ときどきですが、じっとしているときに不安感などに襲われることがありますけど」
「太古の時代からの遺伝子が関係しているのでしょう、じっとしていられない、動かないと食われるか、餓死するという恐怖感、不安感に関係する遺伝子が現代に生きる人間にも形を変えてというか、何らかの形で引き継がれているのでしょう、脳の現状誤認とも言えなくはないですが、これについては、そういうものだと認識し、理解だけすればいいことで脚色の必要などありません。
 なのに、ことさらに、じっといていると不安が募るとでも言いたげに、理屈を理解すればもうそんなことあるわけないのに無駄な考え、憶測に振り回され無駄に動き回り、無駄に接触を求める。
 倦怠感などに襲われるのも、先程言った遺伝子の変形したものが影響しているかもしれませんが。
 飲めば飲むほど渇きを覚える悪魔の水を求めるように、終わらないゲームに身を費やし、そして疲れ果てる。
 この仕組みの中でもがき苦しんでいる人にテレビなどがまた餌を与える。
 金持ちが喜んでいるように見えるのは、そう見えるようにした脚色力と元々欲求不満の見る側の話でしょう」
 「見る側の話か、ドラマやワイドショーなんか特にそうでしょうね」
 「それに世の中には金持ちイコール成功者と見る向きがありますが、それはかなり無理があるでしょう」
 「無理があるか」
 「他人様頼みじゃあ何が成功なのか、分かったもんじゃあない」
 「ここも他人が出てくるのか・・・」
 「世間で成功したと言われる人の辛さは、「あなたは成功した」と言ってくれる人や羨ましく思ってくれる人が回りにいて初めて成功したと思えるということで、これは結構大変ですよ。
 お手伝いがいないと喜べないのは、喜びではなく疲れがたまる演技に過ぎないものでしょう。
 それと、築き上げてきてものが壊れるのではという恐怖心がなければ、その築き上げてきたものに価値を見い出したり、愛着心を抱くことはできないでしょう、つまり築き上げた喜びと同じ量の悲しみを必要とするわけです。
 アホらしい話ですが、世間的な物欲、名誉欲の世界はそんなもんでしょう。
 ただ身の回りにモノが増えた、余計なモノが身についたことが成功だと思っても、実際その人を支配しているモノが不安、虚しさ、寂しさ、悲しみなら成功って何だろうとなりますね。
 物欲は物欲を生むだけ、脳が疲れるだけ。
 誰かに向かって、ことさらに幸せだ、楽しいと言っている人なんかは、内心は助けてくれと叫んでいる人ですよ。
 人間、特に現代人は表面だけでは絶対分からない、その景色や様子とは程遠いところにいるのが現代人です、むしろ表面の反対が素顔だと思った方が良いくらいです。
 ネアカと言われる人ほど、よく落ち込みますよ。
 現代人は表と裏の顔を持って生きているが、その裏の顔たるや想像を絶するくらい不安げで寂しげで見ている方が辛くなる、中には仕事だから仕方ないと無理に諦めようとしている人もいるけどそれも悲しいことですよ」
 「じゃあ何が本当の喜び何でしょうね」
 「私が話したこと、あなたが天国で聞いたこと、あなたがついさっきちょっともらしたことですよ」
 「永遠なる本質だったかな?」
 「何かを感じている、身体の面からだとそれに対応している何らかの反応、動きですね、それは原因があってのことです、その原因は外部の対象という前に、生命力の根源である自然の力、本質に通じています。
 何かを感じるのは感じる力があるからで、最初に力ありきで具体的な対象などというのは後からの付け足し、便宜上の理由に過ぎません。
 第一、対象も原因も特定できません、これが対象だ、原因だと思ったところで、その対象なるものも回りからの規定を受けての一時的現象に過ぎないし、原因にもまた原因があり、その原因もと無限に続いていきます。
 つまり、具体的な対象や原因を特定するような能力は人間にはありません。
 ただこれが対象、原因だと思い込んでいるだけです、その方が都合がいいと思って、取り敢えずそうしているだけです。
 身体の状態により、良い感じ悪い感じがリズムよく訪れるかもしれませんが、その感じていることと、外部の対象を結びつけてしまうと、それは自然の力、本質を認識しているのではなく、我欲にとらわれているだけのことですから、そこからは喜びは生まれないでしょう。
 我欲と個別的本質の認識とは全く次元を異にするものです。
 わけの分からない外部ではなく自己の身体内部に生じている変様、変化だけに注視すれば、後は勝手に充実していきますよ。
 自己の本質を対象とする認識がそうさせますよ、自己肯定とは本質を認識することで、逆に自己否定とは現実現状を否定しているということではなく、この本質を認識していない、本質にふれようとしないことです。
 個別的本質の認識イコール自然の様態としての己の肯定、それはイコール喜びです。
 人間が本質にふれず、形あるものにこだわるのは、そうしないと不安だからです。
 本質の世界は一見何もないように見えるため、不安感などに襲われます。
 ここで言う不安感は生存の欲求に伴うものですが、その欲求が希薄な限り、あまり関係しないかもしれませんが、何もないと感じるところにいるのが辛いと思う人間は、脳内のおぼろげな像の観念同士を感情の力を借りて、無造作に結び付け、より有形化した像の観念を作り上げ、それに関わることで不安感などから逃れようとしますが、その作り上げた像の観念が不十全なため、脳の中が余計に混乱します。
 これが癖になると、朝から晩まで余計な像の観念が脳内にはびこってしまいます。
 精神の本性からすると本末転倒です。
 このあなたの本質を対象とする観念があなたの精神の中心でありさえすれば、それだけで十分ですよ、その一点で十分。
 精神には精神の居場所があります、生命、活動の根源から離れ、末梢の現象だけを追い求めていると、ろくなことになりませんよ」
 「末梢の現象だけでは、ろくなことにならないか・・・」
 「そう、行為や表情という末端の現象は、ある現象とある現象とある現象などの関係性から生じた結果です、動機とかいう短絡的なものではなく、今個体に生じている感情の原因は、また別の原因があってのことです、脳内の像の観念の原因もそうです、原因の原因の原因と無限連鎖から生まれた結果です、またそれらの関係性、結び付き、そして自然の力との関係などの方に視点を移した方が、全ては分からないにしても、より自然の力への理解に近づき、根源の世界に立ち返ることができますよ」
 「現象の奥にあるものか」
 「行為や表情という現象を成り立たせている身体の運動や像、平行する観念、感情などは自然の運動の一つの結果として自然の中に存在するものであり、自然はそのことを理解しており、同時に自然の様態である個物においても、直感的に自然の力として認識でき、あるいは体感できるものです。
 無限知性がそれらを永遠の見地から認識しています」
 「うーん、そうなのか」
 「それに加えて、痛いとか痒いとか思っただけではもったいない、痒いと思い掻くだけならそれで終わってしまう、嬉しいと思ったり、悲しいと思うだけでは能がない、原因を突き止めるのもいいが、その奥の奥にあるものが面白い。
 この場合の痛い痒いと言うのは、感じることそのもののことです。
 痛い痒いは何かを感じていることの一つの喩えで、何をどう感じているかという問題ではありません。
 自然が運動する限り、痛い痒いという状態もその観念も存在します、でも自然の中に無限の運動はあっても自分という存在はない。
 痛い痒いとか感じるのは身体内外の無限の運動の結果の一つの現れですが、痛いとか痒いとか思ったら、ただ単に体が痛いとか痒いとかではなく、痛い痒いという思い、観念が自然の運動とともに自然の中に存在し、それがある個体上か、あるいは無限数の個体上に顕現化している、それを身体の観念を通じて認識しているというように、その身体も観念も自然の無限運動の結果生じたわけですから、自分の問題とは考えず、この自然の中にそういう思いが存在していると認識する、痛いという観念、痒いという観念、またそれらの結合した観念などを数多く認識すればするほど、自然の中に無限数の観念、感情がある限り、それも自然の力を認識したことになり、精神が満たされることも事実です。
 自然の力を認識することは、とりもなおさず自然自身が自らの力を認識し、満たされているということで、その認識は個物を通してもなされ、それによって個物もまた充足感を得ます。
 まあ、自身の力を理解し認識すれば誰でも喜びに包まれますが。
 痛い痒いに関わる感情とその言葉から離れ、それぞれの現象をありのままに体感し、直感だけでとらえれば、それはそのまま永遠無限の自然の力を体感、直感しているということで、永遠を体感、直感しているということです。
 体感、直感による永遠性の認識です。
 自我が滅却した世界においても自然が運動を有する限り、他の現象、それに対応している観念と同様に痛い痒いという現象も観念も共鳴現象も存在するが、自分というものがないから、それについて何の思いも感情も生じてこない、こんな風に、その痛い思い、痒い思いそのものを、何の感情、憶測、後悔、期待も抱かず、ただそれを無限の世界に散らばっている観念の一つとして、単に観察するという態度に徹すれば、無限の像、現象、観念同様、多種多様な感情、そしてそれらの無限の結びつきが自然の中にあることに、それらがあることそのものに感動しますよ、自然の中にある観念、感情が縦横無尽に結び付き、一つの思いとなり、又その思い同志が結び付き、一つのストーリーとなって個物、個体の上に現れると、人間はそれを自分の思い、考えだと錯覚してしまいますが、実際は壮大なパノラマに映し出された無数の観念と感情のコラボの一部を眺めているだけです。
 そして、これは個物に変様した限りの自然がそれらを認識しているということです。
 我々の方からすると、無限数の観念、感情のコラボの一部が断片的に意識の上に現れているに過ぎません。
 つまり、あなたがいつどこで、何を思い、何を感じようとも、それは自然が有する無限なる観念、思考のごく一部分が、ランダムにあなたという個体上に現れただけということです。
 中には不十全な観念、間違った考えや思いなどもあるでしょうが、あなた、個別的本質には関係のないことです。
 それと、痛い痒いなどの思いから新しい世界があなたの中で開かれていくのを感じるようになりますよ、観察の段階で痛い痒いなどに付随する不安、恐怖などの悲しみの感情はなくなっており、同時に自我の次元ではない自然そのものの認識の展開である個別的本質の認識となり、その結果、言い知れぬある種の喜びが残ります。
 それに面白いこともでもありますよ、痛い痒いも、トイレに行きたいと思うのも、感じる力そのものは、自然の本質的、直接的な力によるもの、トイレに行きたくなるのは、その個物も含めた自然の様態間の運動結果。
 ついでに言うと、鼻が痒いのも宇宙や地球上の大爆発も同じ自然の力の運動と展開です。
 だからもし、宇宙がオレたちの爆発はすごいだろうと言えば、あなたは、私は今鼻を掻いている、すごいだろうと言い返せるわけですね」
 「はあ、面白いかもしれませんね・・・何かを感じている?それも自然の力なのか・・・」
 「力の展開です、一挙手一投足、あなたの運動や静止そのものが崇高な自然の活動、力を表現しています。
 どこにも行かなくても誰にも会わなくても、像や観念の世界、心の世界ほど面白いところはありませんよ。
 痛い痒いという形の中で自然の力を感じますし、その像も観念も壮大な自然の力の現れだと理解したときはなおさらですよ。
 痛い痒いを通して、自然の運動を自然の力を感じるのも、手軽で手っ取り早いかもしれませんね。 
 身体の変状の認識を通じて自然の力を認識する、それは個別的本質の認識に通じています。
 また、感じることそのものは誰しも共通ですが、自然の中には無限数の観念が在り、その観念と何らかの感情が結びついたときに、突然の思いとして、この世界のどこかで知覚されることがあります、すなわち不十全な思いとなって個別的、局所的に私やあなたの喜び悲しみとして時に顕現化します」
 「えっ、どういうことですか」
 「つまり、前ぶれもなしにあなたの脳裏に像が浮かび、それで喜んだり悲しんだり、不安になったりする現象です、まあ喜ぶ方は滅多にありませんが」
 「ああ、ありますよ、何で今こんなこと思うのだろうとか、確かにうれしいことより、反対の方ですが、ありますよ。
 それまで何気なしに考えていたことから急に飛んだりします。
 これって、それまで考えていたことと関係があるものなんですか、どうもそうは思われない・・・・急に飛ぶので」
 「そうですね、急に何の前ぶれも脈絡もなく、思ってもいなかったことが突然脳裡に浮かぶと、過去の個人の経験、体験限りでは説明できないところがあり、それまであなたが考えていたことに関係づけるのはしんどいですね、それで角度を変えて見るわけですが。
 これは、自然の中の無限数の観念と感情が結びついたとき、脳がそれを瞬時にあなたのこととして、あなたの中にある過去の像や将来についての像の観念をそれと結び付けた結果ということです」
 「なぜそんなことを?」
 「何でもかんでも対象を作り上げ、自分に置き換え、自分のこととするのが脳の仕事だからです。
 自然の中の現象には相互規定や影響し合うことはあっても主客などないのに、主役になろうとする、例えば私は今、飛行機が飛んでいる音を聞いているとか思ってしまう」
 「はあ?」
 「脳は無限に存在する自然の運動やその結果の一つである振動現象なり共鳴現象を己が主体的に関わっている現象として処理します。
 自然の中に飛行物体、音、聴力、人間身体などとその観念があるとしても主客の関係はありません。
 それらの観念の連結はあっても、そこに感情を入れ込んだ物語も脚本もありません」
 「そうなんですか」
 「また脳が行う救済処置として、思い悩んでいる状態を逸早く何とかしようと、何某かの像を持ってきたり、関連する像をつないで一つのストーリーを作ったりもしますが、結果は中々良い方向にはいかないものです、急ごしらえ過ぎ、未整理のままの像をそのままつなぎ合わせた感がありますからね。
 救済どころか突然現れた像の観念に別の像の観念とマイナス感情が結び付き逆に落ち込むということもよくあることです。
 あるいは 油断は禁物という自己防御に関する一つのシグナルかもしれませんが、人はそれでもよく落ち込んだりするものです」
 「何か、自然の気まぐれに踊らされているようで逆に面白いですね」
 「気まぐれかどうかは別にして、 この自然の中において、感情と観念が結びついた無限の現象をあなたも体験することもできますが、だからといって、それがあなた自身のことというわけではありません、自然は存在しても、その力、その運動は存在しても、あなた自身なんてものは本当のところ存在しませんから。
 その現象がいつどこで誰に何故それが現れるかは自然の個物である私たちの次元を超えた理解不可能な現象の一つです。
 敢えて言えば、観念も感情も自然の力の表現であり、また自然の運動の一つの形態である限りは、自然の何某かの運動の結果としか言いようがありません。
 根元的理由は分からないにしても、これについては、どんな場合でも勝手に現れ、無理に引き止めて何某かの像と結びつけない限り勝手に消えていくものですから気にすることもないですが。
 消えて、また現れて、また消えて別のものが現れても、全ての事象現象を永遠無限の自然の活動下に見る無限知性の見地からすると、自然に無限の観念、感情がある以上、それはそれで結構なことです。
 どんどん現れては、どんどん消えていく、追いかけない限り、それはもう無の世界と同然。
 一コマ一コマが現れては消えているだけで、特段意識しなければ、無いのと同じこと。
 感じている内容とか、している内容は問題ではありません、感じていること、動いていること、それが全てです、対象とか理由とかの付け足しは不要です。
 感じる力は自然の直接的な力、脳の中の像は個々の人間の感情に纏わる一つの記憶で、個々の様態内部の現象、これも自然の力には変わりはないものの、別の次元の事物事象で、認識はしても両者を結びつける必要はないし、結びつく必然性もありません。
 脳内の像を追うことと、それを認識することとは違います、追うとは像を想像力で膨らませ、それをある感情でもって見ていることで、認識は像を純粋に自然の運動、自然の力の結果として見ることです。
 私たちは特定の対象物があって、それが原因で刺激を受けていると思いがちですが、そんな特定の対象物など存在しませんし、私たちには本当の原因など分かりません、全ては主体も客体もない自然の力による個物間の水平的因果関係の連鎖の下に現れた現象です。私たち人間はこのことを理解できないので、原因を特定の物に置き換えているだけです。
 感じるとは自然の力を感じることです、その力を知り、我がものとすることです、自然の力を感じれば感じるほど精神は満たされます。
 思いに縛られることなく、何かを感じれば感じるほど、動けば動くほど根源の世界に引き込まれていくのを感じるようになりますよ、それが自然の力です。
 実際にちょっとやってみましょうか」
 「何を、ですか」
 「まず心を、静かに、落ち着かせてください」
 「はい」
 「あなたは何かを感じています」
 「はい」
 「何を感じているかは考えないでください、後で分かりますから」
 「はい」
 「あなたは、かすかにでも動いています」
 「はい」
 「その理由などは考えないでください、後で分かりますから」
 「はい」
 「感じる心、平行しての動く体、そのことを、それだけを認識する、後は何もないと感じる。
 それ以外のことは意味がない、意味がないと思えるのは意味があることについて認識しているからこそです。
 その意味あるものとは、あなたが感じ動く根底にあるもの、その原因そのもの、あなたの存在の真の原因であるもの、自然の存在であり、自然の力です。
 何を感じているかではなく、感じていることそのもの、外部のある状況や対象ではなく、またそのことについて悲しく感じているか嬉しく感じているかではなく、そんな人にもよるような、時と場合によって変わるようなものではなく、感じていること、そのものに注視するということです。
 同様に何がどう動いているかではなく、動いていることそのものは自然の本質である自然の力そのものです。
 あなたは何かの拍子にたまたま脳内に張り付いた像、末端の現象について感じているとお思いかもしれませんが、実はそうではなく、自然の運動、自然の力、その息吹、根源の世界、真の世界を感じているのです。
 人間は見えないものについて考えるのは苦手なため、直ぐに何某かの像をそこに持ってくるものですが、あなたが感じていたものは実は自然の力そのもので、あなたをして動かしていたものも自然の力です。
 言い方を変えると、あなたは無限に運動する微粒子、観念、感情だけしか見えない世界、永遠の世界にいます。
 運動、共鳴現象、観念、感情、感じること、反応する身体、全て同じ自然の力が働いています。
 共鳴現象、像、観念、感情など我々が目にし、耳にし、体感、体験するものは全て自然の運動の結果の一つです、もちろん我々自身もその一つですが、全ての奥にあるものは自然の力です。
 意識する、しない、見える、見えないに関わらず自然の力とその運動は永遠そのものです。
 またそれは、自然が有する観念、感情、運動、その結果も全てを然りと肯定する力です。
 その自然をその力を感じることは自然の本質の認識であると、あなたはそのことを認識しています。
 あるいは感じているその奥にあるものを把握し喜びを感じます。
 そのときはもう一切の悲しみの感情は排除されています。
 他者などの外部の対象や雑念というか、過去や未来のこともそうですが、余計な思考から離れると自ずと個別的本質の世界が開かれます。
 一番の喜びは己に内在するこの自然の力を感じることです。
 この喜びは、あなたの喜びと同時に自然自身の喜びです」
 「うーん、何か分かったようで、分からないようで、でもとり方によっては単純なこととも言えますね」
 「そうです、人間は人間が思うほど複雑じゃあない、当の人間が複雑にしたがっているということ、素の単純さをカモフラージュせざるを得ない状況に追い込まれているということ」
 「ふーん」と力なく答えた田中さんの中で、そのとき大きな変化が始まった。
 『物質、像、観念、感情・・・これらの運動を感じ、感じることを通して、身体の変状を通して、自然の力を認識し、肯定し、喜びを得る、ことさら意識することなしに・・・か、自然の運動に共鳴はあっても自他も主体客体もないか・・・自然の中には私なんてなかった、固有の運動しかなかった、それしかない』

 それから一月後、田中さんは定年退職となり職場を去った、職場の人間が慣例どおり退職パーティを企画してくれたが田中さんは、これを丁寧に断り、退職金など全額と「家を出る、帰って来るか来ないかは分からない」との書置きを残し、家からも去った。
 妻と娘はいささかも動じず、書置きはメモ用紙に転用された。
 家を出た田中さんは関西にいた、関西の猫山市の町工場にいた。
 田中さんは家を出た後すぐに関西方面に行き、JR猫山駅で降りて駅の南側の道を真っ直ぐ進んだところにある小さな工場に勤めるようになった。
 自然の力の下に、自然が有する無限の本質の下に存在し、そこに固有の本質を見る、この一点だけを見つめる、一点だけに注視すると気が散漫しなくなり、自ずと充実感に満たされる、もうやることはそれだけ、後はもう何も要らない、何も求めるものはないと思って家を出た田中さんだが所持金が少なかったため、収入を得る必要があった、多くの町工場を抱える猫山市の情報をインターネットで目にした田中さんは、慢性的な人手不足に悩む町工場は賃金は低いが、採用条件など特にないということだったため、田中さんは迷うことなく猫山市を目指した。
 確かに賃金は驚くほど安かったが、仕事はさほど難しくはなく、慣れれば誰にでもできる内容だった、最低限度のお金さえあればそれでいいと思っていた田中さんは「それで構いません」と言ったとたん採用となった。
 風呂なし、トイレ共同の六畳一間の安アパートから工場に通い、何かを感じることはあっても、ことさら考えることはなく、喋ることもなく仕事を続けた。
 一見すると日常の所作は昔と変わらないように見えても、田中さんの中ではそれは明らかに違っていた。
 田中さんは、世俗的世間から遠く離れた、既成の価値から離れた新しい世界にいた。
 混沌、未分化状態の世界でありながら、それを構成する分子レベルにおいて一つの力、一つの理法が働き、一つの荘厳なまとまりを見せている世界にいた。
 全ての動きや反応の中に自然の力と本質を見ていた。
 全ての動き、反応それ自体が自然の力の表現であり、自然の活動そのものであると理解し、認識していた。
 はっきりした対象などないが、この自然の中で、微かであっても何かを感じていることを認識している自分、そこに個別的本質を見る。
 平生無心の田中さんだが、無の中にあっても、意識の遠くに微かに感じるものがある、固有の本質の認識がある。
 その一つの観念が精神を満たしていた。
 自然の存在はそのまま自然の力であり、その力の現れ、個別的、限定的な現れこそが己の本質であり、この本質が自分という個物の在り方を肯定し、決定している。
 そしてそれらの観念を持っていること、そのことをはっきり認識していた、理解していた、そして理解する中で喜びを感じていた。
 それは自然自身が己の活動力を認識し、喜んでいることに他ならない。
 田中さんはある種の心地よさと充実感の中にいた。

 工場に来てから二年程が経ったある日、田中さんは三月前から工場で働いている若い男から「今晩一杯付き合ってくれませんか」誘われ、別に断る理由も浮かばなかった田中さんは「わかった」と返事をし、二人は仕事を終えた後、猫山駅前の商店街にある立ち飲み屋ののれんをくぐった。

 「田中さん、俺、今の仕事全然面白くないんですよ、やめようかと思って、友達なんかの話を聞くと、うちなんか給料も安いし、もうやってられないって感じですよ、その友達なんか国内最高クラスの車に乗っているんですよ」
 「国内最高の次は世界最高か、その次はってとこか、切りがないというのも疲れるね」
 「えっ」
 「で、これからどうするの」
 「友達が勤めている会社を受けようかと」
 「それで友達はどう言っているの」
 「社長に話だけはしておくと」
 「話だけねー」
 「ダメだと思いますか」
 「それはわからないけど、その友達も君と同じように苦しんでいるのかな」
 「はあ」
 「君が友達のことを羨ましく思ったのは、その友達が君に羨ましく思ってもらいたいから言ったことかもしれないよ、そうすれば自分の気が少しでも晴れると思ったからかも」
 「そういうことってあるのかな」
 「あるだろう、みんな苦しみから逃れるために必死になっているからね、人間は、そういうふうにできているんじゃあないの」
 「みんなそうなのかな・・・」
 二人の間に暫しの沈黙が割って入った。
 「田中さんはこれでいいって思っているの」
 「いいって何が」
 「夢はないの、もっとああしたいとか、ああなりたいとか」
 「別に」
 「ここがいいの、ここが田中さんの居場所なの」
 「今いるところが居場所さ、ここに居るからここが居場所、ここを離れたら、そこが居場所、今ここに在るということが全てで、後は付け足し、そんなことよりももっと・・・」
 「もっと何」
 「いや別に」
 田中さんは、それ以上その男の話に興味を持つことはできなかった。
 説教することも説得する気にもなれなかった。
 「そんなんで楽しいの、一生籠の中の鳥のまま死んでしまう、それでいいわけ」
 「みんな枠の中だよ、みんな死んでいくよ、何事もなかったかのように、それでいいし、それしかないよ」
 「そんなの嫌だ、あんたはいいかもしれないが、ちくしょう、このまま殺されてたまるか」
 若い男は大声で叫んだ、店主も回りの客も一斉に田中さんたちの方を向いた。
 回りからすれば二人が言い争っているように見えたかもしれない。
 田中さんは客たちの視線を背に店を出「じゃあな」と一言言って若い男と別れた。

 あくる朝、工場の回りは騒然としていた、田中さんと別れた後、若い男があの商店街で刺殺されたのだ。
 工場の前にはパトカーが数台止まっており、その周りを取り囲んだ野次馬から少し離れたところで昨日の立ち飲み屋の店主が捜査員と何やら神妙な顔つきで話をしていた。
 工場の中にも捜査員の姿があったが、 二人の捜査員が田中さんの前に立ちふさがり任意同行を求めた。
 パトカーに乗せられる田中さんの姿を工場主とその妻、工場の仲間、そして野次馬たちが無言で見つめていた。

 田中さんと若い男が言い争っていたという証言があったため、田中さんは任意同行を求められ、捜査協力の名目で、部屋の中にも立ち入られ、その際、台所に包丁がないのを捜査員に厳しく追求された、田中さんは切れなくなったからゴミとして捨てたと主張したが聞き入れてもらえず、三日間事情聴取されたが、証拠不十分ということで、やっと自由の身になった。
 しかし工場に戻った田中さんに対する周囲の目は以前とは全く違っていた。
 あらぬ疑いをかけられた田中さんに対し工場主夫婦は「君が犯人でないと信じているが、工場内が動揺している、不信感を抱いている者もいる、すまないとは思うけど、隣町にある知人の工場の方に移ってもらえないか」と工場を去るよう求めた。
 田中さんは「分かりました、お世話になりました」と言い、工場を去った。

 田中さんが次に行った隣町の工場は前の工場より少し規模が大きかった、田中さんはその工場でもあまり喋らず、ただ黙々と仕事をしていた。
 ある日の朝、工場の社長が現れ突然「今日十時から工場連合の保険組合がやる健康診断があるから、今渡した用紙に記入事項を書いて十時に公民館に行ってくれ、全員行くんだよ」と告げた。
 従業員たちは「いきなりかよ」とぶつぶつ言っていたが、田中さんは黙って渡された用紙に必要事項を記入した、他の従業員も書き始めたが一人だけ、用紙を持ったまま立っている男がいた。
 すると一人の従業員が「おい竹さん、早く書きなよ、住所、氏名、生年月日、それからえーと、身長、体重、後 タバコと酒の量とかだってよ、簡単だから早く書いたら、達筆なところ見せてくれよ」と急かしたが男は立ったままだった。
 竹さんは竹本進といって色黒で小柄な男だった。
 竹さんは読み書きが苦手で、自分の名前程度は何とか書けるものの、それも誰でも読み取れるものではなかった、そんな竹さんは、いつも社長に代筆してもらっていたので、いったん事務所に入った社長を待っていたのだ。
 従業員はそれを分かっていながらからかったのだが、竹さんにとりたてて困った様子は見られない、ただ当たり前のように社長を待っているだけだった。
 ところが社長は「急用ができたから猫山製作所にいってくる、昼前には帰ってくる予定だ」と車に乗って出かけてしまった。
 他の従業員は皆、知らん顔だったが田中さんが竹さんのところに近寄り、竹さんからそっと用紙を受け取り、小声で話しかけながら用紙に記入し「これを持って公民館に行こう」と誘った。
 竹さんは嬉しそうに「あん」と応えた。

 田中さんは以前、社長から「竹本さんには知的障害があるんだ、読み書きはもちろん、まともに話すこともできないんだ、みんなは避けているようだが、根はいい奴なんだよ、何かあれば私を呼んでくれ」と言われたことがあった。
 田中さんは表情を変えることなく聞いていただけだった。
 回りは竹さんのことを「知恵遅れ」「頭がおかしい」「精神病」と言っていたが田中さんはそうではなかった。
 田中さんは竹さんと仲がいいというわけではなく、竹さんの良き理解者というわけでもなく、また教養のある常識人ということでもなく、ただ「知恵遅れ」「頭がおかしい奴」「精神病」などのマイナス感情と一体になった表現や観念は、いつしか田中さんの中から消えていたのだ。
 話などしない二人だが、コンビで仕事する場合、他の従業員が竹さんを避けるため二人で組んで仕事をする機会は多かった。
 竹さんの仕事ぶりは、さして面白くもない作業でも、それが一段落すると喜び、何かうまくいかなかったときは、またスタートラインに立って一からやり直し、うまくいくと喜び、日々その繰り返しだった。
 コンビで仕事をする場合、田中さんも嫌な顔一つせず一緒になって、スタートラインに立って一からやり直すこともしばしばあった。
 そんな竹さんと田中さんは物言わずとも、それなりにリズムが合っていたかもしれない。
 竹さんは昼休みや休憩時間には、いつも外に出て空を眺めていた、雨の日も窓越しに眺めていた、その表情はこれで充分、と言っているようで、その姿はまるで天空の中に安らいでいるようだった。

 昼食は工場が用意した弁当だが、竹さんはいつも無心でほうばっていた、そして食べ終わると一仕事終えたかのように満足そうな顔をしていた。
 世間には自分より能力が劣っているものが楽しく幸せそうななら、それを許さないという風潮があるようだ。
 あるとき休憩室で暇を持て余した従業員が竹さんをつかまえて「竹さんの故郷はどこよ」と訊いたが竹さんはニッコリ笑いながら首を斜め上にかしげただけだった。
 その従業員は「自分の故郷も分からんとは最悪だな」と田中さんの方を向いて言い放ったが田中さんは彼と目線を合わさなかった。
 その従業員が今度は「田中さんの故郷はどこ」と聞いてきたので田中さんは「さあ、脳にもキャパシティーがあるようで、この年になると、どうでもいいことは忘れるようにしているんだ、そうしないと大事なことが覚えられないからね、まあ生まれたところも死ぬところも大自然というところかな」と涼しげに答えた。
 従業員はムッとしたが、言い返すことはなかった。

 次の日、始業時間になっても竹さんが現れない、従業員たちはみんなそのことに興味はない感じだったが、社長が動揺した様子で皆の前で「昨日の夜、竹さんが殺人容疑で逮捕された」と声を震わせながら言った。
 そのときはさすがに従業員の間から「えぇー」「本当ですか」「どうして」と声が上がった。
 社長の話では二年ほど前、猫山駅前の商店街で若い男が刺殺され、その容疑者が竹さんだということだった。
 田中さんは一瞬「そんなことあるはずがない」と思った。

 工場の定休日に田中さんは竹さんが留置されている警察署の前に立っていた、警察署に来たところで、田中さんはどうすることもできない、そんなとき「田中さん」と呼ぶ声がした、振り向くとそこにいたのは、あの怪しげな研究所の中村先生だった。
 「ああ、先生」
 「やっぱり田中さんだったか、お久しぶりですね、随分表情も様子も変わりましたね」
 「そうですか」
 「たくましくなったというか、以前のような弱弱しさや、おどおどしたところがないですね、その作業服も似合っていますよ、板についているという感じですよ」
 「そうですか、先生はなぜこんなところに」
 「ああ、接見、弁護です」
 「弁護?先生は弁護士ですか」
 「そうです、弁護士もしています」
 「誰の弁護ですか」
 「二年前の猫山駅前商店街刺殺事件の容疑者です」
 「竹本進さんの」
 「そうです、やっぱり知り合いでしたか」
  田中さんは竹さんと同じ工場に勤めていることや自分もその事件で疑いを掛けられたことなど中村先生に話した。
 「そうでしたか、竹さんも田中さんのことを話していましたよ、いつも一緒に仕事をしていると、いい人だとね」
 「竹さんが、ですか」
 「ええ、私は彼が言っていることも、思っていることも分かるんですよ、ずっと以前から知っていましたから」
 「前から知り合いだったのですか」
 「彼の中学時代からですよ、甥っ子が中学の教師をしていましてね、甥っ子のクラスに読み書きはほとんどできず、喋ることも困難な子がいまして、それが竹さんで、何か障害があるようで、それに母一人子ども一人の貧しい家庭で、その母親も知的障害で、竹さんが小学校のとき、母親が重い病気にかかり、誰にも相談することなく、亡くなるまで竹さんが学校にもろくろく行かず一人で看病していたそうです、その後は遠縁の家から学校に通っていたそうですが。
 でも甥っ子が言うには根は素直で明るい子だそうです、その竹さんが、クラスの中で誇大妄想的なことを言って、みんなからいじめられるようになったということで、私は竹さんと会うことになって話をしてみると、誇大妄想というより、クラスで夏休みに行った旅行のことが話題になり、どこにも行ってもいない竹さんもその輪の中に入ろうと、たまたまテレビで見ただけのヨーロッパのことを、みんなの前でたどたどしく喋ったところ、竹さんが本当にヨーロッパに行ったようなことを言っていると受け取られ、それに興味を持ったクラスの者がラインで竹さんを馬鹿にし、中傷し始めたようです」
 「ラインですか」
 「そう、もっとましなことに取れ組めばいいのに、それができない子がね、自分の回りはちっとも面白くないと思った子が、ラインの中にある種の生き甲斐を見つけたと錯覚し、嘘のつながりと嘘の満足を得ようとしたと思いますが、結局は誰も満足するどころか、みんなますますイライラして、いじめがエスカレートしたようです、まあ、いじめた子どもたちも学校や教師に反抗するものの孤独を恐れ、過度につながりを求めようとする現代的精神疾患なわけですが、それ以来竹さんの性格は段々暗くなっていったそうです」
  田中さんは身じろぐことなく中村先生の話を聞いていたが、心の底で何か切なさを感じていた。
 「ラインにすがるのも勝手ですけど、ヨーロッパに行った気になったり、行ったと思ったりするのも勝手ですけどね」
 「そう、ヨーロッパに行こうが、それをテレビで見ようが、そこから受ける刺激や思いは同じもの、一つの外部の対象に関わる脳内の観念と感情のストーリーに変わりはない。
 まあ夢と現実の話をするとね、夢と現実を区別するものは実は何もない、みんな個々の脳の中の話で、外部からの何らかの刺激によって生じる脳の中の像、その像の観念をあたかも現実と思い込み、あることないことをみんな自分の都合で脚色し、それを現実だと思って治まっているだけですからね、世間が現実と言っているのは錯覚の一つ、現実よりも真実を生きればいい」
 「あるのは運動する自然の力と、個物の存在肯定の力だけ・・・それで一向に構わない、それだけでいいのに」
 「ええ、現実とは外の何かと関わっている様、真実とは内なる個別的本質の世界、自然の個物としての存在肯定の世界、その真実その真理に従って、何があっても個物である己の存在を肯定し続けて行けばいい、そうすればあの子どもたちのように、あれほどラインにすがりつくことも、人を中傷することもないし、自ずと喜びの感情も生まれてくる、竹さんはそういう人になれるし、なるべきだと思いました」
 「それでどうしたのですか」
 「竹さんに限ったことではありませんが人間は言葉で考えようとしますが、その言葉は別の言葉を想起させ、それがまた別の言葉と結びつき無限につながっていきます、でもそれはすでに曖昧な記憶や感情や憶測で染まったものなので事実とはかけ離れています。
 それに、行くも帰るも同じ道という真理を言葉は認めようとしません。
 一つのものを区分けし、そこに無理矢理価値を見出そうとしますから。
 元々言葉のつなぎ合わせは矛盾を含んだものです、言葉に出すと、あれちょっと違うと思うことなど多いでしょう、でも言葉上は矛盾であっても自然の中では統一されていることはたくさんありますけどね。
 言葉で表現できなくとも、自然の中で、自然の力で見事に表現されている事象は無限にありますが、真実や本当の思いを言葉に出すことは大変難しいことなんです。
 言葉を受け取る方にしても、そう簡単に納得したり、理解できるものでもありません、まして人のことをああだ、こうだと言葉で聞かされても、よく分からないというのが本当でしょうね、たとえば自殺する人は繊細な人だと言われても、何が繊細なのか、よくわかりません、ある意味生死に関しては大胆な人だと言えないこともないわけですから。
 多面的なものを一面的な言葉で説明するのには自ずと限界がある、だから誤解も生じる。
 人によって言葉のニュアンスも違い、人それぞれに体の構造も体質も違い、また感情も違いますから、誰にとっても言葉の取り扱いは難しいものなんですが。
 余談になりますが、私の知人の家族に大のネコ好きがいまして、その家族ときたら、会話は日常の必要最低限度の事務連絡だけにとどめ、後はネコまねで「ニャーニャー」と発するだけ、そうすると、それだけで十分伝わり、誤解も、余計な心配ごとも、感情のもつれもなくなり結果、無意識のうちに互いが互いを認め合う関係になったということです。
 今まで意識しなかった世界があると感じ、誇張も脚色もない元々の自然に近づいたように感じたそうです。
 人は相手に向かって良いとか悪いとか言っているのではなく、そのときの自分の感情を表明しているだけという場面は多いですよ。
 ですから言葉がとか、会話が大事と一概には言えないところがあるかもしれません。
 まあそれはさておき、 元々言葉を想起したり、つなぎ合わせるのが苦手な竹さんですから、竹さんの脳の中の像と竹さんの喋る言葉とは違ったものでした。でも回りはそんなことにお構いなく、上っ面や言葉尻だけとらえ、表面に表れたものだけで竹さんを評価し「変な奴」と決めつけてしまいます。
 問題は下手に自分の脳の中の像や状態を他人に喋り同意を求めようとしたことです。
 居場所が欲しい、仲間が欲しい、受け入れて欲しい、承認されたいなどの欲求は、類で生きようとする人間の遺伝子の関係なのか、誰しも思うことなので、当たり前のようだが、この歪な現代社会の中でも、それが果たして、本当に当たり前のことなのか、額面通り受け取っていいものなのか。
 本当は遺伝子などの次元ではなく、暇を持て余し、耐えがたい退屈にもてあそばれている人々のないものねだりの現象ではないのか、あるいはネット社会といわれる中でふれあいとかつながりとかの言葉がもてはやされる現代の風潮なり雰囲気が生んだ後天的且つ人工的な脚色された欲望、取り違えられた欲望の一つではないのか。
 この人に、この仲間に受け入れられた、承認されたと思ったところで、それは一時の思い過ごしや錯覚ではないと言い切れるのか。
 あるグループに受け入れられたと喜ぶのは、自分のことを認めてくれないと思っていたグループから離れ、別のグループに移行したときに生じる一抹の不安をカバーする脳の一時的な補てん現象のせいに過ぎないのではないのか。
 黙っていても認められている、この自然において。
 その上に誰かに認めてもらいたい、認めて欲しい、それは本当に必要なことなのか。
 ましてや世間に向かって認めろと主張する意味など全くないし、他者に共感を求める必要性もない。
 個の内部に充実したものが自然の力として、自然の必然性として存在している以上、竹さんには、そんなことする必要はない、輪の中に入る必要もないと、孤高の状態を保っていればいいと、諭しました」
 「諭しただけですか、そう簡単なことじゃあないような気がしますが」
 「そうですね、だから脳への電気刺激装置、あの電極やケーブルのついた帽子のようなものを被ってもらい、こちらで画面を見ながら脳の神経細胞などを操作、コントロールしていきました」
 「帽子のようなものねー、それって、ああそうか、私の時もやっぱり装置か、そうか、私は過去にも未来にも行っていなかったのか」
 「そりゃーそうですよ、過去も未来も現在もみんな脳の中の世界ですからね」
 「ふーん、そうですね」
 「あなたも当時は関わり依存症でしたからね」
 「現代的精神疾患というやつだったんですね」
 「そう、孤立を恐れ集団におもねるも、他者とのからみの中で自我意識が浮き沈みし、我が我がと主張しても意味がないのに止めようとしない、ほとんど自分の生活には関係のないことでも、暇つぶしなのか、欲求不満からなのか、取り残されるのを恐れるようにそこにしがみ付き、誰かに強要された不自然な価値基準に取り付かれ、混乱した感情でもってものを見ようとする、あるいは己の欲望を大きな組織や集団に託し、実現を図ろうとマンガの世界でもあり得ないようなことを平気で考えている人も同じでしょう。
 これは精神的疾患の症状ですよ。
 それ故の支障が出ているか出でくるでしょう。
 精神的疾患と言ってもいろいろで、自己主張型の老人性認知症もその一つと言えるでしょうね、つまり死という現象を恐れるあまり、手ごろな相手を見つけて、その人に対してだけ自身の勝手な理屈をこね回したり、逆らったり、あるいは嘘か本当か分からない過去の自慢話を持ち出したりして、相手の反応から自分はまだ生きている、当面は死ぬわけにはいかないとか都合よく解釈し、想像して安心感を得ようと頑張る、相手にされた人は大迷惑ですが。
 それと人間の身体も観念も本来は生死のバランスを有しているものですが、生に対する執着心が強すぎる人、死にたくないという意識が強烈過ぎる人は、風の音一つ聞いても、生命を脅かすものととらえますが、これなどは幻覚症状の一つでしょう、死に対する過度の恐怖感、生死に対する誤った観念により、事象をありのままにとらえる機能が消失している状態でしょう。
こういう症状の老人も以外にいると聞いていますが。
 最近ではネットなどに踊らされ、すぐに飛びつく、あるいはそこでユニークな場所だと紹介されれば、わざわざ出かけ、あげく並んで順番待ち、これなんかも危ない兆候ですよ。
 SNSなどで日々相手を探し求めているのも同じような危ない兆候でしょうね。
 あなたもそれに近い要素があったということです。
 まあ、今に始まったことじゃあないけど全てが他者との関係なり比較、まるで他人を神のごとく崇めている、これが心の病の大きな原因になっています」
 「そうですね」
 「あのときは、脳を操作し過去や未来に行ってもらったということです、過去についてはあなたも気づいていなかった脚色された記憶の部分にふれたということです。
 未来や真実の世界は脳内の奥の奥の部分、脚色のない部分の展開です。
 それからあなたの脳のある部分を操作し、自我意識を弱めたんですよ、自我意識を弱めると相関関係にある他者意識も弱まり、他者についての観念も薄らぎ、全ての意識が弱まるけど、感覚や感情など全てのものがなくなるわけではなく、動いたり、止まったり、何かを感じたりしていること自体の意識は残ります、でもそれはもう自我や他者の関係から離れたものですから、意識というより一つの認識です、個物に変様した自然の活動としての認識、自然が有する一つの観念ということになり、外部のものはボヤっとしたものになるかもしれませんが、感覚や感情、それに平行する身体の変状についての自覚自体を自然の力の表現としてとらえるようになります。
 もちろんそうとらえるのは、社会の中の個人としてのあなたではなく、自然の様態化した限りの個物としてのあなたということになりますが」
「個人とか自我とかいうレベルじゃあない」
「そう、他者はもちろん自分の記憶さえもない、何もない自然宇宙の中で一人のあなたは自分を感じることはできませんが、何かを感じる。
 あるのは自然だけで、周りに比較するものがないのに、その自然の中で何かを感じるということは、他者との関係の中での相対的な自分を感じているわけではありません、自然と共通するものがあるが故に感じることです。
 また、澄み切った青空の下に一人いるあなたに、自分が青空を眺めているという思いはありません、そこには主体も客体もない、青空とあなたが一つとなった現象があるだけです。
 自然とのつながり、一致の認識です、これも自然の力の為せる技です。
 無の中でも何かを感じる、その何かが何であるか言葉には表せないが、あなたはその存在を認識している、自然の力の分有である個別的本質を認識しているのです、それだけを認識し、それだけで十分、それ以外何もない、本質の観念は他者他物についての観念も、過去や未来の思いも何も含まない。
 他者や過去や未来の観念も何もない、他に如何なる観念も要らないと確信させるものの存在を感じる、これは本質の観念自らが己を表しているということです。
 これは自然と個物との本質的一致、個物自身の本質の観念と自然の本質の観念の一致であり、究極的には自然自身の認識ですが、自然の様態としての個物においても、そのことが認識されている状態です。
 個別的本質に付随する知性とは全ての現象を永遠無限の自然の相の下に見る無限知性のことです。
 誰かが、何かを待ち望んでいるとしても、無限知性はそれをドラマティックに脚色せず、無限の関連関係の下に現れた、ある個物の状態、現象と理解します。
 そこにいろんなものを結びつけたり、切り取ったりはしません。
 要するに、全ての関連性の中にあっても、これがある、それだけです。
 無限知性は永遠無限の見地しか有しませんし、永遠無限を理解するのは無限知性においてです。
 個別的本質の展開が永遠無限の見地である無限知性の働きであり、無限知性は全てを覆い尽す大宇宙的規模の関連性の下にものをみる明知のことで、水平的因果関係世界の全ての事象現象を永遠無限の見地から認識しています。
 そして、そこに日常のそれとは次元を異にする喜びを感じています。
 垂直的因果関係世界のあなたが水平的因果関係世界の中で喘いでいる人間を、あなたを見ていますが、そのときあなたは言葉では言い表せない心地よさを感じます、これは無限知性自身が自身の活動を認識していることから生じる喜びですが、自然の必然的な働きの一つとして、自然の中のこの観念自身が様態である個物を通して顕現化している状態です。
 存在、力としての個別的本質、その知的働きとしての無限知性、それだけの世界。
 自然の道理を知り、その運動をその変様を肯定している無限知性は感情の面では心の奥に在る喜びしか感知しません。
 そういう状態の中で私の話を聞いたあなたは、その後自然の本質とその分有である個的本質にのみ関心が向かい、それ以外のものには関心がなくなり、精神の本性は何ら摩耗することなく本来性を取り戻し、悲しみの感情が排除され必然的に喜びに満たされたと、まあ、こういうことです」
 「ええ・・・それで・・・竹さんも」
 「ええ、彼の場合は元々余計なことは考えないタイプだったし、悪い感情に取りつかれることも少ない方だったので、不安感や不足感を生じさせる脳の箇所を少し操作したけです。
 それだけで、あらゆる事象に満足できるようになり、満足していれば、他人の同意を得たいとか輪に加わりたいとかの欲求行為はなくなりますから、人と喋るのも最低限度ということになります、元々喋ることが苦手だったので自分のリズムで生きられるようになりましたよ。
 要は元の彼に戻したということですが、 脳、意識と知性の改善ですよ。
 改善するといってもね、彼の場合に限ったことじゃあありませんが、思考ゼロの状態になるということじゃあなく、言葉を経由しない、あれこれ考える必要もない直感的思考の下にあるということです、思考から不必要な考えや悪い感情を差し引いた状態のことで、直感は個において元々備わっている存在肯定の観念と直線的に結びついているから、必然的に喜びの感情に満たされる。
 直接的だから比較の観念などとは結びつかない、つまり個々の存在肯定に直接的な食事や着衣などの観念はあるが、グルメとかファッションとかの比較を前提とした観念、誰が作ったか分からないいい加減な価値基準など他人が介在する間接的な観念とは無縁、直感による観念は単純明快で、その観念自身が持つ領域を守り、逸脱せず、そこには観念と観念の必然的連結はあっても不自然、不必要な連結連鎖などはない、人間は見えても美人は見えないというところかな」
 「はあ?」
 「例えば人間の顔の観念と異次元の価値基準に関わる観念を結び付けると一つの不十全な観念が生まれます、これは観念の不自然、不必要な連結です。
 時代よっても、環境によっても、人によっても違う人間の美的感覚と人間の顔の観念という、凡そ結び付く必然性のないものを結び付け、それを社会一般の価値のごとく扱ってみたり、ネコや犬にも当てはめようとする。
 元々は暇つぶしのためか、結び付けた方が面白いと感じた人の想像力からきていると思いますが。
 観念のお遊びですね、単なる言葉遊び。
 直感は観念のお遊びとは無縁、言葉で考えない、言葉を必要としない。
 直感は美人など見ません、見るのは不十全な観念です。
 不十全な観念の支配下にある限り、精神は揺らぎ狂い始めるでしょうね。
 そこからは喜びは生まれません、改善しない限りは」
 「改善、直感ですか、直感の結果、喜びですか」
 「そうですよ、あそこに二人いるでしょう、ベンチの両端に座っている二人」
 中村先生は前の公園を指さした、田中さんがそちらの方に目をやるとベンチの両端に腰を下ろして、子どもたちが遊んでいる光景を眺めている二人の男性の姿が見えた。
 「あそこにいる二人、同じような場所で同じような姿勢で同じような光景を眺め、同じようなことをしていますね、でも一人はすごく落ち込んで思い悩み、もう一人は反対に清々しい状態で満足しきっているのが分かりませんか」
 「いや、それは分かりません、先生は分かるのですか」
 「分かります、長年の研究生活のなせる技ですかね」
 「同じステージで同じように動いているのに一人は悲しみの感情、もう一人は喜びの感情に支配されています、一人は余計な思考とマイナス感情の虜になって、もう一人はそんなものはなく、ただ直接的に自己を受け入れている。
 意識や知性を改善することによって後者になるならそれでいいじゃあありませんか、何をするにせよ、何もしないにせよ、悲しみの感情は存在力を低下させ、そこに対立や不幸が生まれますから。
 世の中の全ての不幸は、何某かの人が何某かの人間の本性に反する悪しき感情にとらわれた結果ですよ。
 喜びの感情からは対立は生まれないし、自然に共存関係に入る、不幸もなくなる、言うことなしですよ」
 「同じようなことをしていても、喜んでいる人、悲しんでいる人、いますからね」
 田中さんは中村先生の言葉に、それ以上は返さなかった。
 「竹さんはどうなるのですか」
 「自己責任を問えるかどうか精神鑑定を行うそうです、それも警察が指定した機関で」
 「警察が指定した機関だと具合が悪いということですか」
 「おそらく、竹さんの脳の中が書き換えられるでしょう」
 「書き換えられるって」
 「感情の起伏が激しいが、頭はしっかりしていて責任能力は十分問える、そういう人間にされてしまうんですよ、いろんな装置や手法を使って、自供さえしかねないように、私が考えた意識と知性の改善を逆手にとっての悪用ですよ」
 「どうしても竹さんを犯人にしようとして、ですか」
 「捜査が後手後手に回り、未だ決定的なポイントを上げられない、警察も焦っていますから、だからとにかく犯人を挙げて、一件落着とするための威信をかけての冤罪作りですよ」
 「嘘ばっかりで体裁だけ取り繕ろうとするのか」
 「そう、嘘と体裁の世界は、誰か犠牲者がいないと成り立たない世界ですからね」
 中村先生から竹さんの話を聞いた田中さんだか、何かモヤモヤした感情を引きずっていた。

 その後、竹さんの起訴が決定した、警察が作った人造人間竹さんは犯行を自白し、凶器も竹さんの自供どおり見つかったということだ。
 真犯人が見つからない限り、竹さんの有罪は決定的なものとなった。
 「そんなバカな」
 このときばかりは田中さんの中に怒りの感情が芽生えた。
 田中さんにとってこんな感情に取りつかれるのは初めてのように思えた。
 それ以来、田中さんはそんな悲しみの感情に振り回されるようになっていった。

 それから一年後、田中さんは工場を辞め元の家に戻ってしまった。
 家には以前と同じように妻と娘がいたが、二人とも田中さんを待っていたわけではなく、久しぶりに田中さんの顔を見ても感動した様子は全くなく無表情のままだった。
 それでも二人は金も家も残して家出した田中さんに対し「出て行ってくれ」とは言わなかった、言いづらかった、いやそうではなく言うのが面倒くさかったのだ。
 しばらくは三人で暮らすようにはなったが、食事も洗濯もみんな各自バラバラ、会話を交わすことなどなかった。

 田中さんは再び中村先生のところを訪ねた。
 「やあ田中さん、あれ、初めてお会いしたときの顔に戻っていますよ」
 「そうですか、実は元の家族のところへ戻ってしまいまして、それで前よりひどく感じて、お願いします、もう一度、あの装置で私の意識と知性を最初のときよりもっと強く改善してもらいたいのです」
 「もっと強く、ですか」
 「はい、もうどんなことが起きても心が動かされないように」
 「やはり、竹さんのことがショックだったようですね」
 「それはよくわかりませんが、竹さんは今?」
 「凶器は竹さんのものじゃなく、傷害致死ということで、情状酌量の余地も認められましたが、結局服役ということです、検事、警察のウソ、誇張を暴くことができませんでした、総がかりで罠に嵌められました、残念です」
 「竹さんの様子は」
 「ときどき面会に行きますが、竹さんの方は逮捕される前に戻ったようで、刑務所では素直な模範囚で、落ち込んでいる様子はなかったです、結構満足していて竹さんにとっては刑務所も捨てたもんじゃあないかもしれませんね、まあ長くても数年で帰ってくるでしょう」
 「そうですか、竹さんは強い、私も竹さんのように、いやもっと強くなりたい、先生お願いします、できるでしょう」
 「できないことはないですが・・・分かりました、じゃあ前回の処置に加えて・・・少し待ってください」
 中村先生はそう言って立ち上がり隣の部屋に入り、黒い瓶を手に持って戻ってきた。
 「前回の処置に加えて、この錠剤を飲んでください」
 「薬ですか」
 「アウタルケイアという薬です、他者や回りの事、過去未来に関係する思考や何らかの思いなどが部分的に停止し、強力な自足充実感を体験するものです。
 外部からの如何なる刺激に対しても、直感的に喜びを感じるようになります。
 この場合の刺激は世間で言われるような刺激を求めて彷徨うというような欲望のことではなく、自然の運動による万物間の触発関係、規定関係、影響関係などのことですが、それらを感じることそのもの、身体の変状そのものに喜びを感じ、それ以外のことには興味がなくなり、その刺激そのものに喜びを感じるようになります。
 もちろん、その刺激の観念は他者や外部の観念、思いを含んだものではありません、無媒体、直接的な自然の力そのものについての観念です。
 刺激や反応を主客、自他、対象なき一つの共鳴共感現象と直感において、とらえるようになります。
 元々人間にはそういう力があったかもしれませんが」
 「それを飲めばいいだけですね」
 「はい、そうです、入手したばかりですが、より効果が強まり、持続するはずです」
 「それじゃあお願いします」

 二時間後、中村先生の研究室を出た田中さんは夜の街を一人歩いていた、どこを歩いているかは分からなかった、分かる必要がなかった、これまでの歩みを振り返ることもなければこの先の予定も期待も何もないが、ただ歩いているということだけは認識していた。
 前回とは違い何某かの収入を得ようとも思わなかった。
 暑さ寒さは何となく感じるものの、それ以上の思いはなかった。
 ただ自身も含めた自然の活動、運動に身を委ねていただけだった。
 またそのことに心地良さを感じていた。
 生きているのか、死んでいるのか、起きているのか、寝ているのかには無頓着になった田中さんだが、ある部分では聡明だった。
 どこが聡明なのか、自分が生きているということより、呼吸し、何かを感じ、反応する身体自身と、それが自然の力であり自然のいぶきであるということに対しては聡明だった。
 呼吸は大地の息吹で、それは自然の運動そのものだった。
 回りは時折、ボヤっとして見え、物と物との境界があいまいになり、全てがつながって見え、色どり豊かな一つの大きな模様のように見えた。
 切れ目のない一つの世界に田中さんの身体もうずもれていた。
 色とりどりの模様、動いている模様もあれば止まっているように見える模様もある、大きくなったり、小さくなったりしているようにも見える、でもその境目は分からない、自身の身体の切れ目も分からない、切れ目のない模様の中で完全と存在する自身の個的本質。
 人の声は音として聞き流し、その音を一つの振動のように感じていた。
 その振動は自然の運動を表現したものと理解していた。
 その中で、己の何たるかを理解し、自然の変状する力を認識、肯定している田中さんは強い自足充実感と心地よさを感じていた。
 一点を見続ける田中さんは他者他物の観念に影響されない、確固とした不動の精神下にあった。
 田中さんは目的があって歩いているわけではない、まるで昔の木枯し紋次郎のように歩き続けた『いくつも峠をこえた、どこにもふるさとはない、この上何が欲しい、こころはむかし死んだ、きのうなんか知らない、けれどもどこかで、おまえは待って、いてくれる』ただ紋次郎さんと違うのは、追い立てられることはあっても、どこにも誰も田中さんを待ってはいないということだ。
 でも田中さんはやつれてはいなかったし、澄んだ目をしていて、その姿は見方によってではあるが、輝いているようにも見えた。
 そんな田中さんが寒々した夜道を歩いていたとき、一台の車が田中さんの体をかすめそのまま通り過ぎていった、ひっくり返った田中さんにケガはなかったが、服が何かに引っ掛かり破れてしまった。
 この寒空、何とかしようと思い、辺りをウロウロしていたとき衣料支援センターと表示された倉庫を見つけたが、時間が時間だけに倉庫の関係者は誰もいなかったので、田中さんはそこで、なんとか一夜を過ごし朝になるのを待った、翌朝8時をまわったころ一人の男が田中さんの前に立った。 
 「こんなところで何をしているんだ」
 「実は昨日の夜、車にひっかけられまして、このとおり服が破けてしまい、どんなものでもいいですから譲ってもらえないかと思い、どなたか来るのを朝までここで待っていたのです」
 「当て逃げか、ついていないな、朝まで待って気の毒だと思うが、ここは集まった衣料を海外の貧しい国に送るために種分けをするところなんだ、だから勝手なことはできないんだよ」
 「どんなものでもいいんですが」
 「そう言われてもなあ、使い物にならないボロ着くらいしかないよ、廃棄するやつさ」
 「それでいいんです」
 「それでいいって、その破れた服と変わらないよ、まあ重ねて着たら寒さしのぎにはなるかもしれないが」
 「お願いします」
 田中さんはボロ着をまとい再び歩き出した。
 その姿は正にホームレスだったが、本人にとっては、何となく、とりあえず寒さをしのいだだけで、それ以外の思いなどなかった。

 その日の午後、田中さんは大通りの歩道を歩いていた、折しもその時期は選挙運動の期間中で歩道沿いには選挙事務所がいくつか設置されていた。
 事務所前には揃いのジャンパーを着た人たちが大勢いたが、田中さんが前を通りかかったとき、そのうちの一人が「早く行け」と棒のようなもので田中さんを突いた、その男は田中さんのことが目障りだったのだろうが、田中さんは姿勢を崩すこともなく、振り返ることもなく歩き続けた。
 30メートルほど歩くと別の選挙事務所があった、今度はお揃いのジャンパーではなくみんなバラバラの服装だったが、その中の若い女性が田中さんの傍に来て「よろしくお願いします」と頭をさげ、チラシを手渡した、田中さんは「私はここの人間じゃあありませんし、全くの対象外ですよ」と笑いながらチラシを返そうとしたが、女性は「ちょっと待ってください」言って事務所の中に入り、すぐまた出てきて「これ、余り物で失礼なんですが、よろしかったら召し上がっていただけませんか」と田中さんに弁当を渡した。
 田中さんは丸1日何も食べていなかったので「ありがとうございます、助かります」と弁当受け取るとまた歩き始めた。
 その女性は「また寄ってください」と後ろから声を掛けた。
 女性は野党系の候補者自身だったようだ。

 公園のベンチに座って弁当を食べた田中さんの前に小さな女の子の手をひいた男性が現れた。
 女の子も男性も田中さんの姿を見てもいぶかしがる様子は全くなかった。
 女の子は「大きなおうち」と田中さんの後方を指差した、田中さんが後ろを向くと、大きな家が一軒建っていた。
 田中さんは、その家の大きさや、色、形は認識するも、それが立派だとか、良いとか悪いとかの感情は浮かばなかった、田中さんが目にしたその物体は憧れの対象などではなく、それは誰かの住処かもしれないが、さして自分の身体と変わらない、ただの物質の集まりだった。
 自分の身体同様、一つのつながりである自然の物質的側面での一つの現れだった。
 小さな物質が集まり大きなものとなり、その大きなものも自然宇宙全体の一つの小さな絵模様として目に入ってくる。
 回りの家も、公園も自分も自然という大きなキャンパスを埋めている絵模様の一部であった。
 女の子が「あんな大きなおうちに住みたいね、お父さん」と言うと、男性は「あっああ、住めたらいいね」と力なく答えた、女の子は田中さんにも「おじいちゃんも住みたいでしょ」と聞いてきたので、田中さんは「おじいちゃんは住みたいと思わないよ」と答えると女の子は「どうして」聞き返してきた。
 田中さんにとっては、どこまで続いているか分からない空間のある一点に「今在る」こと以上の思いはなかった。
 「どんな家に住んでも同じだよ、このベンチにいても同じこと、そこに在ることに変わりはないよ、それよりお嬢ちゃんがいつも元気で明るく楽しく過ごしているのが一番だよ」
 「私いつも楽しいよ、お父さんといっしょだから」
 「お父さんと一緒、それが一番いいことだよ、よかったね、大きな家なんてもういらないよ」と言い腰を上げて立ち去ろうとしたとき、 男性が近寄り「ありがとうごさいます」と田中さんに礼を言った。
 男性の目には涙が溢れていた。
 田中さんはそっと、その場から離れ歩き始めた。

 それから二日後、田中さんは公園の水飲み場にいた、二日間まともに食べていなかったので水で腹を満たそうとしたのだ、水を飲んでベンチに腰を下ろしていたとき、やつれたサラリーマン風の男が水飲み場に来て、ガブガブ水を飲み始めた、田中さんはその様子から彼も水で空腹を満たしていると思った、男は水を飲んだ後、田中さんの隣に座ったが、ずっとうなだれたままだった。
 田中さんは、以前その男が公園にいるところを中村先生と一緒に見たと思った。
 田中さんが立ち上がり歩こうとしたとき、男も立ち上がり田中さんに声を掛けた。
 「あのー、これからどこへ行かれるのですか」
 「いや、別に」
 男はその場の状況も雰囲気も無視するかのように上から目線で名刺を差し出した。
 「高橋と申します、お名前は」
 男の場違いな行動に田中さんは一瞬困惑したが、名刺を見ることなく「田中です」と答えた。
 「田中さん、ご一緒させてください、何せ私はこういう生活に慣れていませんので」
 「慣れるもんでもありませんけどね」
 「せめて寝るところだけでも教えてもらえませんか、田中さん」
 「さあ、私も分かりませんよ、それは」
 田中さんは高橋に一礼するようなポーズを取り歩き出したが高橋も後ろからついてきた。
 どこまでもついてくる高橋に田中さんは何も言わず何もせずに歩いていたが、突然二人の前にサングラスをかけた男が現れた。
 「あんたたちどこへ行くんだ」
 田中さんは何も答えず先へ行こうとしたがサングラス男が道をふさいだ。
 「どうせ行く宛なんかないんだろう、うちに来ないか、作業現場でちょっと働くだけで結構いい金になるよ、おまけに寝床も飯もタダときている、こんないい条件のところどこにもないよ」
 田中さんは黙っていたが、高橋が横から出てきてサングラス男に尋ねた。
 「こき使われて、ピンハネされて、働けなくなったらポイ捨てじゃあないの」
 「冗談じゃない、うちは6時時間労働で週休二日制それに肉体労働なんかじゃあないよ、それでも万一働けなくなったときでも、ポイ捨てなんてとんでもない、こっちで生活保護の申請をしてやるよ、住所がなければ申請もできないよ、それにこっちには有能な弁護士もいるんだ、鬼に金棒、安心しな」
 「そこは、いつでもやめられるんですか」
 「当たり前だよ、やめたければいつでもどうぞ、退職金もでるよ、何も迷うことはないよ、さあ一緒に行こう、あの車に乗りなよ、さあ乗った、乗った」
 サングラス男は高橋の腕を掴み、強引にワゴン車に乗せようとしたが、高橋も田中さんの腕をしっかり掴んでいたので田中さんもワゴン車に乗せられるハメになった。
 サングラス男が運転するワゴン車は一時間くらいかけて雑草だらけの空き地のようなところに到着した。
 「着いたよ、あれが宿泊所、共同だけどトイレも風呂もあるよ、まかないがいて三食付きだよ」
 高橋がサングラス男に訊いた。
 「部屋の間取りなんかはどうなっているんですか」
 「さあ、俺は言えといわれたことだけ言って勧誘して、ここに連れてくるだけ、それ以外のことはするなといわれているので、中は知らないけど、まあまあじゃないの」
 その宿泊所は案の定まあまあではなかった。
 まかないのおばさんに案内された部屋は寝台が四台あるだけ、食事は、朝は茶碗飯一杯とかろうじてネギが入っているように見える水っぽい味噌汁と生キャベツにソースかけたものだけ、昼の弁当は塩むすび二つに雑草のような漬物、夕食は朝の味噌汁とキャベツのあまりと極限の薄さに挑戦したようなハムが二枚、週に一度は肉料理も出るが、何の肉かは分からないし固くて、まずい。
 仕事の内容は解体現場の整理掃除で、重いものを運ぶわけではなく、確かに実際体をフルに動かしている時間は6時間ほどだった。
 日当は六千円ということだが、そのうち四千円は退職貯金や傷害疾病保険や、なんだかんだの名目で差し引かれる、当然生活保護費を受給できても、差し引かれ手元にはほとんど残らない。
 田中さんは始めからサングラス男の言うことなど信じてはいなかったが、ここは地獄のタコ部屋だとも思わなかった、嫌なら文無しで出て行くだけと思っていた。
 高橋は一日、二日は飯にありつけたので黙っていたが、三日目ごろからは今までとは全く違う姿を見せ田中さんに愚痴り始めた。
 「これじゃあ、奴隷ですよ、何でこの私がこんな目に合わなきゃならないんだ、私はねー田中さん、一流企業の商社マンだったんですよ、それがこの様だ」
 田中さんは黙って聞いていた。
 正確には聞いていたのではなく、田中さんは高橋に関心を向けていたというより、高橋から出る音声や仕草に無意識に反応する自分の身体の方に関心があったようだ。
 それでも高橋は喋り続けた。
 「会社では成績もよく、幹部候補生だったのに、本来勝組の私があいつらのせいで、私を犠牲にして昇っていったんですよ、ルールを破ってもレースに勝とうとする卑怯なやつらに追い落とされ、あげくに左遷、左遷された子会社が廃止されたとたん、本社は私を整理したんですよ、無茶苦茶ですよ」
 ようやく田中さんが口を開いた。
 「かつてはよかったということ」
 「そう、それが・・・」
 「だったらそれでいいじゃないの」
 「ええっ」
 「よかれと思った現象があって、今はこの現象がある、それでいいじゃないの」
 「よくないよ、このままでは終われない、かつての栄光を取り戻す、カンバックしてやるということ」
 「それは無理じゃないの、同じ現象は二度と起きないから、そんなに無理しなくてもいいのに、要は、出世レースに負けたということなのかな」
 「負けたんじゃあない、騙されたんだ、ルール無視の卑怯なやり方で無理やり敗者にされてしまった、不正レースの中で」
 「レースそのものが初めからなかったかも」
 「そんなことありませんよ、競争社会ですからね、レースはありますよ」
 「「なるほど、オカルト教団やヤクザ社会、反社集団、不良少年グループの中では、凄まじい権力闘争なり出世争いがあると聞いたけど、あなたの回りにもそれに近いものがあったということか、まあ出世したらしたで大変な苦労を背負わされるみたいだけど、無意味な苦労だけど、そんなゲームに興味がない者からすると、レースはあなたの頭の中で始まり終わった、実際は勝者も敗者もいないようにレースもなかった、そんな気がするね」
 「ええー、そんな・・・だから田中さんはずっとホームレスなんですよ、このままだと食べて寝て死ぬだけの人間になりますよ」
 「そうだろうな、それ以外のことをしている人にはお目にかかったこともないので」
 「そんなんでいいと思っているんですか、もっとましなことをして、良い思いもしたいとは思わないのですか」
 「良い思いって、何」
 「何でも自由に好きなことをするということですよ、自由に」
 「好きなことって、何ですか」
 「えぇーと、豪華客船で世界一周とか、豪華なディナーとか」
 「はあ」
 「いや、そのー、急に言われても・・・」
 「自分が本当に好きなことなんて、誰も分っていないと思うよ、何が一番いいことなのか、何が一番好きなことなのか、無限の関係、連鎖の中に居る人間にはそれは分からないよ、悩み苦しむ本当の理由が分からないように、好きなことも、できないんじゃあなく知らない、知らないものは求めようがない。
 言葉ではどうでも言えるし、知っているふりはできてもね、せいぜい嫌なことを避けることぐらいしかできないよ」
 「だから、良い思いですよ」
 「良い思いもそうでない思いもまるで計ったように絶妙のタイミングで勝手に現れては勝手に消えて行くね、これって結構面白いもんだね」
 「はあ、何を言っているのですか、あんたはそれでいいかもしれないが、私は違う、やり返してやる、私をコケにした奴らに必ず仕返しをする」
 田中さんとて矮小な自己保存のため、人を利用する醜い輩がいることは承知していた、騙し賺し脅し、天賦の共存関係を自らの愚行によって破壊する輩がいることも承知していた、同時に誰しも抱える生得的な負の感情は、この男をしてそのまま、他者に対する憎しみ嫉妬に置き換わっていることも、分かっていたが田中さんがそれらを口に出すことはなかった。
 高橋は「とにかく私はこんなところにいる人間じゃあない、金を取り返して、ここの奴らにも思い知らせてやる、ここを訴えてやる、本気ですよ、私は」と息まいたが田中さんは反応を示さなかった。
 高橋はこの施設の責任者に直談判したようだが、それからは、あのサングラス男と行動を共にするようになり、毎日のようにサングラス男とワゴン車で出かけ、何人かの男を車に乗せて帰って来た。
 高橋はここの勧誘人になったようだが、ツレだと思われた田中さんは出て行くように言われ僅かな金を持って出で行った。

 ねぐらを追い出された田中さんは、再びホームレスとなり、また食うや食わずの生活に戻った。
 そんな日が続いていたある日、公園で炊き出しがあると聞いた田中さんは、まだ多少の金は残っていたが、とりあえず炊き出しの列に並んだ。
 二列縦隊の形で三十人くらいが列をなしていたが、斜め前方に小学生くらいの女の子と一緒の男性の姿があり、その二人が振り向いて田中さんをじっと見つめた、いつか公園で「大きなおうちに住みたい」と言っていたあの親子だ。
 田中さんが炊き出しを受け取り、芝生に腰を下ろすとその親子も横に座った。
 「お久しぶりです、その節は、覚えていらっしゃいますか」
 「ああ」
 「あれから二年ほど経ちましたが、この様です」
 「学校は」
 「娘ですか、行ったり行かなかったりです、この子が私から中々離れないので、これを食べ終わったら学校につれていくつもりです」
 そう言うと親子は炊き出しを一気に食べた。
 「久しぶりのご飯ですか」
 「この子は給食がありましたが、私は昨日はとうとう食べずじまいでした、お恥ずかしい話ですが、いろんなことがあって・・・」
 「ほおー、お仕事は」
 「ええ、元々私は体が弱くて病気がちで、限界もあるのですが、この子が学校に行っている間とかにちょっと働いた日銭でやっています、まあアパートで内職もしていますが、この子も手伝ってくれるのですよ、でも借金を返すのが精一杯で」
 「借金ですか」
 「ええ、知り合いの保証人になりまして、それで・・・」
 「返す目途は」
 「さあ、どうでしょうね、最近は取り立ても厳しくなってきていまして、でも先のことは考えないようにしています、この子のためにも、自分のためにも、暗い顔ばかりもしていられませんので、別に希望があるということじゃあありませんが・・・望を持ってもうまくいった試しはありませんでしたからね、でもこんな状態でもせめて親子仲良く、明るくというだけですね、妻にも先立たれ唯一の家族ですから」
 「それでいいじゃあありませんか」
 「お父さん、私、学校へいくよ」
 親子が立ち上がって田中さんに一礼し、出かけようとしたとき五十過ぎくらいの女性が二人の前に現れ「こんにちわ、清田さんも来ていたの」と声をかけた。
 この親子は清田というらしい。
 「やあ、奥野さん、この前はありがとうございました」
 女性は奥野さん。
 奥野さんは「これさっき顔見知りの人からもらったのよ、よかったらどうぞ、ミコちゃん、はい」と言ってお菓子をミコちゃんという女の子に手渡し、田中さんにも軽く会釈した。
 ミコちゃんは「おばちゃんありがとう」と礼を言い、清田さんも「いつもすいません」と礼を言うと、奥野さんは「またね」と笑顔で手を振り立ち去って行った。
 清田さんは奥野さんを見送りながら「親切な方なんですよ、この子も可愛がってもらって、この子、奥野さんにはすごくなついているんですよ」
 「いい方ですね」
 「ええ、初めはボランティアの方だと思っていましたが、この前、ここで炊き出しの列に並んでいたのでびっくりしました、でもああいう方が仲間だと思うと何だか嬉しくなりますよ」
 「そうですね」

 清田親子と別れた田中さんは、今夜のねぐらを確保しようと探し歩いていたとき、ネコを抱いた一人のホームレス風の男とすれ違った。
 竹さんだった。
 「竹さんだろう」
 「あん」と竹さんは人懐っこい笑顔で答えた。
 田中さんはネコを抱いている竹さんに何の違和感も感じなかった。
 田中さんはそのネコにも見覚えがあった。
 『ああ、あの時のネコさんか』
 それから二人は、いや三人は行動を共にするようになったが田中さんの言葉と竹さんの言葉とネコさんの言葉が交差することはなかった、それでも一緒にねぐらを探し、一緒に炊き出しの列に並び、時には田中さんの金で弁当を買ったりして生をつないでいたが、やがて金が底をつき、次の炊き出しの予定もわからないので、三人は仲良く途方に暮れようとしていたとき、公園でよく見かける初老の男性が三人に声をかけた。
 「よお、お揃いだね、飯でも食いに行くか」と三人を誘った。
 「やあ、高崎さん、ちょっと人数が増えましたが、お願いします」
 田中さんはこの高崎という男に何回が飯をおごってもらったことがあった。
 高崎は竹さんのこともネコさんのことも全然気にしていなかった。
 高崎は清田さんとも奥野さんとも面識があるらしい。
 「清田さんも気の毒だが奥野さんも大変だったみたいだよ、こうなる前に頼れる人もいたと思うが、人様に迷惑だけはなんて言っていたね」
 高崎の話では、身内のいない奥野さんは亭主と二人で食堂をやっていたが、ギャンブル好きの亭主の暴力が絶えず、もう限界だと思ったとき、亭主が急死し、やっと地獄の状態から解放されたと思った矢先、今度は亭主が作った借金の取り立てに会い、店も全て手放し、着のみ着のままで追い出され、アルバイトの掛け持ちで、やっと借金を返した時には体がダメになってしまい、バイト先もクビになり、途方に暮れ、いっそ首でもつろうかと思っていたところをホームレスたちに助けられたらしい。それ以来彼女は彼らの元を離れずにいるとのことだ。
 この高崎という人物は一風変わった男で、元公務員、現在は年金生活者、高崎はこの国の政治や政府が嫌いで、国の政治と経済に寄与しないことを信条として、選挙に行かない、働かない、ものを買わないことをモットーにしている。
 必要最小限しか金を使わないのは、別に節約して金を貯めて何かをするというわけではなく、ただ経済活動に寄与しない貢献しないということだけらしい、余った金はホームレスにくれてやろうと思ったこともあったが、それでホームレスの購買力が増えても、それは本旨ではないと考え、わからないところに捨てようと考えている変な男だ。
 田中さん、竹さん、ネコさんの三人は高崎に連れられ、定食屋に入った。
 高崎はメニューを見ることなく「A定食三つとネコ定食一つ」と勝手に注文したが、定食の中身がわからない三人にとってはその方が都合よかった。
 田中さんが「またお金を使わして申し訳ないですね」と言うと高崎は「金を使うとかの次元のことじゃあないね、糧がないものに、あるものが分け与える、当たり前のことだね。
 それに無職無収入ということは詐欺まがいのことをしてまで稼いでいないということ、真っ当なことをして収入を得ている人間なんてほんの一握りだけだよ。
 それに物事を誇張し、脚色し、刺激を与え、それで稼いでいる奴は嘘つき商売で犯罪人と変わらないよ」とあっさりと言った。
 その言葉と表情には驕りも同情らしきものも何もなかった。

 高崎と別れた三人は、当てもなくまた歩き始めたが、いつしか見覚えのある場所に来ていた、そこは中村先生の自称研究所のあるマンションの前だった。
 マンションの前には軽のバンが止まっていたが、三人はそれを横切ろうとしたとき、荷物を手にした中村先生が現れた。
 「やあ、やっぱり三人一緒か」
 中村先生は三人が出会うのを予期していたようだが、田中さんはそれを不思議とは思わなかった。
 それより中村先生の雰囲気が少し変ったような気がした。
 「お出かけですか、荷物を持って」
 「ああ、引っ越しだよ、ここでの暮らしに堪能し過ぎたからね」
 「どこへ」
 「田舎だよ」
 「荷物はこれだけですか、あの機械や装置は」
 「ある筋に売ったよ、結構いい値だったよ、ああそうだ、君たちも一緒に来るか、放浪もいいが、ここらで、どう?」
 「遠くにいくのですか」
 「いいや、車で二時間くらいだ、私の大学時代の知り合いの土地でね、祖父の代から引き継いできたけど邪魔だというので、タダみたいな値で譲ってもらった土地なんだ、まだ建物も残っていて、かなり広いので、何人でも大丈夫、さあ、乗った、乗った」
 三人は中村先生の車に乗せられ、どこかへ向かった。
 田舎道に入ってしばらくすると、荒れ放題の畑と庭が見え、その奥に一軒家があった。
 中村先生は「ここだ、ここで自給自足といこう」と言い、みんな車から降りた。
 見知らぬ土地に連れてこられた三人だが、自給自足の意味を深く考えることもなく、緊張した様子もなく、これから何が始まるのかという不安めいた感情も全くなかった。
 田中さんはいつも通り脳裡に飛来する感覚を一人で楽しみながら、ゆっくりと歩き始め、竹さんは周囲の空気を満喫している様子で、ネコさんも天国にいるときと変わらなかった。
 三人が歩き出したその前に「高崎」と書かれた薄汚れた看板が立っていた。
 田中さんが聞くとやはりあの高崎だった。
 「知り合いにホームレスがいると言っていたが田中さんのことだったのか」
 「ええ」

 あばら家のような一軒家で一夜を過ごした次の朝、中村先生は「明日から畑と庭、それにこの家の改修だ、私を入れて四人か、もう少し人手がいるかな、誰かいない」と三人に聞いたので田中さんは「あの公園に行けば一人くらい何とか」と答えると、中村先生は「よし、じゃあ行ってみよう、それと私は高崎も誘ってみるよ」と言い田中さんと二人で車に乗って出かけた。
 「誰か心当たりがあるの」
 「ええ、まあ」
 車中で田中さんは心当たりのある人のことを話した。
 夕方帰って来た車に乗っていたのは軽の定員オーバーの五人だった。
 田中さんと中村先生の他に清田親子、それに親切おばさんの奥野さんだった。
 奥野さんは「本当に私まで、いいんですか」と聞くと中村先生は笑顔で「いいですとも、ミコちゃんはあたなたになついているらしいし、宅配の運転もされていたそうで、ミコちゃんの学校への送り迎えもお願いしますよ」と言うと「それは任してください、それに私、実家が農家だったので畑仕事もなんとかなると思います」と奥野さんも嬉しそうに答えた。
 清田さんも「私もバイトで家の補修なんかも経験があるんですよ」嬉しそうに続いた。
 清田さんの謝金は中村先生が肩代わりするようだ。

 次の日から作業が始まった、昨日は先生がコンビニで買った弁当だけだったが、みんな朝早く起きてさっそく作業に勤しんだ。
 畑の仕事のノウハウは中村先生が家の補修関係などのノウハウは清田さんが図書館へ行ったり、ネットで調べたりしながら、実践、改良を繰り返していった。
 そんな中で竹さんは、誰かに教えてもらったことや、他の人の作業を見て覚えたことを一心不乱に黙々とやり続けた。
 でも「竹さん休憩」「今日はここまで」と誰かが言うと素直に従い、作業を止めた。
 それが竹さんのリズムだった。
 奥野さんもミコちゃんの学校の送り迎え、買い出し、作業とフル回転だが笑顔は絶えなかった。

 ミコちゃんも作業を手伝った、ネコさんは力仕事や道具の扱いが苦手なようだったが、にわとりの世話の仕方や特製の豆腐、味噌、パンなどの作り方をネコペースでゆっくり、丁寧に伝授した。
 それと同時に、ネコさんの持つ、この世のものとは思われない異次元の感覚、感性が徐々に回りを支配していった。
 部分的に思考が停止し、部分的に脳が真空状態になり、いやネコさん流に言えば、何かに満たされているため真空状態に思えたのだ。
 満たされているので不安感はなく、不安感がなければことさら思考の必要はない、会話も最低限度で十分、事実ネコさんは満たされていた。
 この自然こそ天であり、唯一の実体であり、個体としてのネコはその実体の一様態でありながら、本質的部分においてこの永遠無限なる実体と垂直関係でつながっていることにネコさんは満足し、満たされていた。
 個を否定するようなものは何もない、あるのは全自然による全肯定、そういう異次元の世界にいるという感覚が回りを支配していた。

 これといった会話もなく、声なき笑みだけがあるという何とも異常な世界に異常な男が訪ねて来た。
高崎だった。
 高崎は中村先生に一緒に来ないかと誘われたが「もう全て卒業したよ」と断ったものの、何か気になるところがあってやってきたようだ。
 高崎にとってはみんな顔見知りだった。
 高崎は回りを見て「やっぱりな」と頷き、中村先生と話し始めた。
 「みんな自分たちでやっているのか、業者には頼まないのか」
 「ああ儲けることも儲けさすこともないよ、経済活動には極力参画しないようにね」
 「ふーん、それで最後までいけるのか、完成するのか」」
 「さあ、いけるところが最後で、完成だ」
 高崎は回りのみんなと仕事ぶりを見渡し「なるほど、そうなのか」とつぶやいた。
 次の日も高崎はやってきたが、中村先生に自分の蓄えの現金を渡し、何も言わず去って行った。
 高崎が帰った後、敷地に建てられていた看板が「高崎」から「自然郷」に変わっていた。
 中村先生には高崎の気持ちは分かっていたし、みんなの心中も同じだっただろう、かくして全員「自然郷」のメンバーとなった。

 メンバーは次の日から中村先生が用意したお揃いのユニホームを着ることになった。
 一人五着も配られたが、ユニホームといってもネームが入っているわけでもなく、シャレたデザインのものでもない、ただの丈夫で安い作業服だった、中村先生が古着屋で見つけてきたものだが、あいにくネコさんに合うものはなかったようだ。

 同じような服を洗っては着、着ては洗い、同じようなものを食しながら作業を続ける、しかし彼らにはマンネリとか退屈とかという思いはなかった。
 彼らはもうどこにも行かない、逃避する必要もないし、どこかへ行きたいとも思わない、追い立てられることもなくなったので行く必要もない。

 最新の道具や便利グッズの類は使用せず、堆肥、燃料、家屋の修理など、ほとんどがリサイクル活動といったところだが、如何に経済活動には貢献しないと言っても畑を整備し、作物を育てるには、それなりの投資は必要であったが、資金は中村先生の持ち金と高崎からの寄付金で十分だった。

 こうして三年後、畑は整備され作物も育ち、老朽化した一軒家も見栄えこそパッとしないが人が暮らせる程度の家となった、ときどき雨漏りはするものの、それを修理し、また雨漏りするとまた修理するというだけで、気にするものは誰もいなかった。
 儲けが出ない単純再生産のような形態ではあるが物欲の再生産ではなかった。
 彼らはものが欲しいわけではない、いつしか物欲のような切りがない欲にとりつかれることを避けたいと思うようになっていた。
 むろん地位や名誉という観念のかけらさえない。
 好き好んで自己を追い込み、疲れさせることはしなかった。
 かといって彼らはただ心地よさを求めていたわけでもなかった、自らの本性が求める場所にいただけだった、心地よさはその結果に過ぎない。
 他者の観念はもちろん、現在過去未来といった時間の観念、自我や己の肉体に関わる観念、個体の観念から離れ、自然の力による全肯定の世界に身を置いた結果、彼らは一切の悲しみの感情から離れ、自然の中に存する形なき喜びの充実体に変状した。
 万一必要なものがあれば中村先生が揃え置いてくれる。
 娯楽や余暇には興味を示さず、巷の話題や関心事、うわさ話や作り話にも関心を持つことが全くなかった、何故にそんなものに興味や関心を持つのか、全く分からなかったし、必要もなかった彼らは朝早く起き、肥料、水やり、植え付け、除草、耕地、防虫、収穫、水洗いなどの畑仕事やにわとり小屋での仕事や施設全体の掃除や補修などを昼食を挟んで夕方まで行い、夕食を食べて寝てまた起きるという一見単純な繰り返しに見える日常の中で満たされていた。
 彼らの日常は時間とは無縁で、彼らの行為は時間の中で行われていたわけではなく、その行いの中で時間は経過して行ったが、誰もそれには気づいていなかった。
 彼らの行為そのものが始めも終わりもない永遠無限の自然の運動であった。
 時計はあったが誰も見ず、止まったままだった。
 時計もカレンダーもないから、明日というものもない、明日がないから昨日も今日もない。
 単純な繰り返しの中では新たな刺激が生まれず飽きがくるものだが、彼らにとってはその単純な繰り返しが生のリズムになっていた。
 それは仕事のリズムというより、自然の中での伸縮なり強弱のリズム体験かリズム体操だった。
 動いて止まり、止まって動き、伸びて縮んで、縮んで伸びて、吸って吐いて、意識の奥で暑さを感じ、寒さを感じ、轟音を感じ、静寂を感じ、暗さを感じ明るさを感じ、その繰り返しがリズムとなっていた、暑さ寒さや何かを感じても、それを言葉に出すことはなく、そこに身体の変状を感じても、それが自然の力であること、それ以上の思いはなかった、その感じることの根元にあるものを感じていた、彼らにはそれしかなかったので、それに飽きるということはなかった。
 全てが自然の力であり、その表現である以上、自然の一部である限りの彼らは飽きようがなかった。
 そのリズムは自然という生命のリズムそのもので、彼ら一人一人は各々にその自然を表現していた。
 大自然からの刺激に反応する身体、それはそのまま彼らに充実感を与えていた。
 その充実感とは、直接彼ら自身が充実しているというものではなく、自然自身が充実している結果として、永遠無限の運動と静止の中で、自然の様態である彼らも、その充実感の中に在るという状態であった。
 充ち足りてはいるが、何をしているかは問題ではなかった、何故、充ち足りているかさえも。
 感じることの中に根源の世界をみていた。
 夢や目標を持っているわけではない、彼らにはその必要がなかった、付け足しは必要なかった。
 夢や目標に縛られることなく、彼らはどこまでも自由人だった。
 その姿は目標に向かって進んでいるというものではなかった。己の意志でやっているというより意志の範疇を超えた己の中にある、何かが勝手に動き出しているという感じだ。
 無の中の行為であり、その姿は外との関わりを持たず、瞑想の中で動いているようにも見えた。
 あるいは古の中国の偉人、荘子のごとく、万物と春を楽しみ、世俗を超えて世俗に遊び無窮の世界に羽ばたく姿とも言えようか。
 彼らは行為の中に喜びを感じ、後は無心で自然のリズムに乗っているだけだった。
 喜びに包まれてはいたが、それは自然の中の個別的本質が、自然自身が喜び楽しんでいることに他ならない。
 浮き沈みのリズムであっても、沈んだときにマイナス感情が貼り付くことはない。
 自然の無限運動とそのリズム、永遠の流れの観念はあっても時間の観念などはなかった。
 彼らの本能的ともいえる生きる力は生活と仕事を分けなかった。
 嫌なことでも仕事と思えば我慢できるかもしれないが、同時にどんな好きなことでも仕事となれば憂いや労苦が付きまとう。
 彼らの作業はあくまで自然の行為の一つで仕事と言う概念ではなかった。
 糧を得るためという考えは彼らにはなかった。
 彼らにとっての労働とは衣食住確保のための行為ではあったが、それは生物一般が水や空気を必要とする次元以上のものではなかった。
 一つの行為を生活の手段だと考えたとき、そこには悲壮めいたものが残るということを彼らなりに理解していた。
 労働は貴いという言葉とは無縁だった。
 昨今は嫌なことを忘れるために、金を稼ぐために仕事に没頭しようとする人も多いが、嫌な思いからも、物欲からも解放されている彼らにはそんな思いなど全くなかった。
 義務であるとか、社会のためだとか、取って付けたようなフレーズとも無縁であった。
 自然の中で何らかの行為に関わり、生産に従事していたかもしれないが彼らは今でも無職だ。
 近くを流れる小川のせせらぎと彼らの息遣いは同じ次元で同じ空間を占めていた。
 日常の行為の中に安らぎを感じ、そして彼らはその中で根元的なるものの存在を感じとっていた。
 彼らには日々のメリハリも生きているという実感もなかったが、ただ対象なき喜びに包まれていたことは確かであった。
 一なるものに直結した喜びに。
 根源の世界から離れることはなかった。
 主体客体という観念と彼らは無縁だった。
 彼らのいる世界には主体も客体もない、見るものと見られるものとの境も、聞くものと聞かれるものとの差も何もない、主客未分、またあるときは主客転倒、全ては一なるものの世界の展開。

 食事は主に奥野さんが用意していた。
 食事中は話し声も笑い声もないが、あの竹さんでさえゆっくりと味わっているようだった、おいしいと思っていても、奥野さんに礼をいうものはいなかった。
奥野さんも全然気にはしていない。

 そんな奥野さんが町に出かけたとき、バッタリ昔の知人に出会った、その知人は七十過ぎくらいで高級ブランドを身に着け、ピカピカに着飾り、逆に年を感じさせる程の厚化粧だった。
 彼女は奥野さんの制服を見て「どうしたの、その格好」と訊ねた。
 奥野さんが「自然郷」のことや、そこでの生活ことを話すと彼女が「そんなところにいて、そんな恰好しているからダメなのよ。
 女はいつまでも美しくあるべきなのよ、いつまでも輝いていなきゃあ、これから友達のバースデーパーティーにいくのよ、地位のある方々と交流して自分を磨かなきゃあ、進歩しないわよ。
 そこの人って頭がおかしいんじゃないの、異常じゃないの」と言ったので、さすがの奥野さんも唖然としたが次の瞬間、思わず笑ってしまった。
 なぜ笑ってしまったのか、奥野さんにもよく分からなかったのだが。
 そのとき「奥野さん、あんたはきれいだよ、子どもには子どもの、年寄りには年寄りの美しさというものがあるよ、金ピカでなくても」という声がした。
 またあの高崎だった。
 奥野さんの知人は高崎を軽蔑しようと必死になったが、それはかなりエネルギーのいることなので、頓挫し中途半端な表情のまま立ち去った。
 その後も高崎は一人で喋りだした。
 「あそこまでして、世間に露出したいのかね、もうええやんって感じだね、葬式と紙一重のバースデーパーティーか、俺には分からない、異常だね」
 聞いていた奥野さんの頬の筋肉は緩み放しだった。

 「自然郷」では自給自足中心の生活が始まり、余った野菜などは町に行き、信じられない安値で売りさばいていった。
 野菜などを町で売るに当たって協力を惜しまなかったのは、あの選挙期間中、田中さんに弁当を渡したあの女性だった。
 彼女は木村由美子といい、当選して議員になっていた。
 中村先生と田中さんが車に野菜を積んで街に出かけ、たまたま車を木村議員の事務所の前に止めていた時、木村議員が現れ田中さんに「お久しぶりですね」と声をかけた、田中さんも木村さんのことを覚えていて、中村先生とともにここで野菜を売らせてほしてと頼んだところ、木村議員は新鮮、安全、安心な野菜、しかもタダ同然の安値での販売に驚くとともに「自然郷」の活動に共感し、事務所の横の空き地を提供してくれた。
 看板もなく、チラシを配るといったPRも声をあげての客の呼び込みも何もしなかったが野菜はすぐに売れた。

 その後木村議員は「自然郷」のPR、NPOの立ち上げ、などの件で「自然郷」を訪れたが、メンバーと顔を合わしたとたん、その思いは消えてしまった。それでもたびたび訪れ、ミコちゃんと作業を手伝ったり遊んだりしていた。

 田中さんたちがここ「自然郷」に来てから十年余りの歳月が経った。
 ミコちゃんは中学を卒業後、木村議員宅から女子大の付属高校に通うことになった。

 最年長の中村先生は酒もタバコも口にしていた。
 あるとき奥野さんが中村先生に「先生のおかげで衣食住の心配がなくなり、安心して夜もぐっすり眠れます」と言うと、中村先生は酒を飲み、タバコをふかしながら「精神の安定性、充実性の保持には、衣食住など、それなりの外部条件も必要だが、それはあくまで一定の条件であって、それ以下であってはならないけど、仮にそれ以上であっても精神の安定性、充実性には関係しない、むしろそれ以上なるものを求めてしまうと反って精神は損なわれる。
 幸福と外部条件の間には実に絶妙なバランス関係がある。
 世間では将来が不安ということで、お金を貯めてホッとしたいようだが、ここではみんな、その前にホッとしているので、お金には興味がないみたいだね。
 衣食住に安心保証、悩みなし、おまけに酒、タバコ付きで言うことなし、天国だよ、これ以上は不要」と満足げに言っていた。
 そんな中村先生だか最近は体調が優れず、歩くこともままならない状態になっていたが中村先生が病院に行くことはなかった。
 中村先生にとって誰が、どこで、いつ死のうがどうでもいいことだったし、ましてや長生きに、価値を置くことも、興味も関心もなかった。
 そんな中村先生に奥野さんが気遣った。
 「お体の具合はどうですか」
 「まあ、病気だろうね」
 「先生、やはり、病院にはいかれないのですか」
 「病院は大袈裟、病気と言っても特別なことじゃあないよ、見た目には分からないけど、みんな心身の理由によって日常生活なり社会生活に制限を受けている、みんな誰かの、何かの介護を必要としている。
 それに、ガンが治る時代は来るかもしれないが、心の病が治る時代は、もう来ないだろうね、幸い私はそっちの病気はまぬがれたけど、こっちの病気になったというだけ。
 現代人はみんな病んでいるよ、何かを追うあまり、何かに取り付かれ、何かに蝕まれている、一億総病人。
 外部の物に束縛されない心の自由や喜びを犠牲にしてまで得るものなんて何もないよ、今だけそれらを犠牲にすれば、この先はとか考えているうちに心は変形し、元には戻らない。
 あっちの病気よりこっちの病気の方がいいとか考えてみるのも面白いかもしれないが、それよりもっと根源的なところに私はいるよ。
 もう十分だね、形ある人生は、人間はいつか必ず死ぬし、仮に病院に行って長生きしたとしても。
 それに自然を一つの生命体とすると私の身はそれの細胞、細胞は細胞の死をもって細胞となる、そうして、その生命体は維持されている、それにまた個々の死は自然にとっては睡眠みたいなもので、脳の一部が休んでいないと脳の活性化は図れないし、学習効果も表れない、その生命体は枯渇するよ、いずれにしても死は自然にとって必要で必然的なもの、我々もその自然の一部。
 五十で楽に死ぬか、百まで苦しんで生きるか、格好をつけて五十までの方と言う人もいるかもしれないが、実際みんながやっていることは百までの方、人生が苦しいのは当たり前、それを乗り越えることに意義があるなんて、取って付けたような言葉も聞き飽きたしね。
 生きる長さになんか意味も意義もないよ、その中身に意味や価値があると言っても、それは自身の成果を自身に報告することでも、他人に自慢することでもない。
 手に入れた物もなければ築き上げた物もない、物を移動しただけ、デコレーションを変えただけで物が増えたわけでも何でもない。
 個人としての尊厳でも誇りでもない、そんなものは元々ないし、必要ない、意味とか価値があるとしたら、自然の力によって生じた生命体としての充実感、完成度の認識、無限に変状する自然の個物として、永遠の今を肯定する力。
 全てそこに還元される。
 個物性、自然の個物としての本性を失うと、それはもう個物ではない、それでもそれは、この宇宙のどこかにくすんだ、淀んだ空気のようなものとしてあるかもしれないが、個物の本性、本質を失わない限り、それは完全と在り続ける。
 ネコさんじゃあないが、もうとっくに人の脳から天の脳にチェンジしているよ、脳が委縮する前にね」
 「そういうのも自決と言うのですか」
 「自決?自殺ね、ちょっと違うだろう、私の症状に当てはまるかは別にして、世間には終末期に延命措置を拒否すると、それは自殺と同じではないかと言う人もいるらしいが、残り少ない余命を苦しまずに過ごしたいと言えば、それは自らの決断で自殺と同じだとね、でも自殺と同じと言う人の自殺の定義は極めてあいまいで、真に定義するのはしんどいから、世間がそう思っているからと、取り敢えず迎合して、それは自殺と同じだと納得した振りをしているだけ、言葉に遊ばれているだけ。
 誰が見ても次元の違う話。
 終末期を向かえている人に人生いつでもやり直せるとは言えないよね。
 実際はみんな余命何か月の中でしか生きていないのに、それが余命120月だと、どういうわけか安心して、またいろんなものにちょっかいを出してしまう、1月と120月の差って何だろうね、それだけ多く泣ける、笑えるということなのか、むしろ1月の方だと余計なことに興味がなくなり、振り回されずに済むだろうに。
 命は貴いという言葉を無差別無条件に振り回してもねー」
 「そうですね・・・」
 「寿命が後何年伸びたところで、何も変わらないよ。
 まあ関係ない話かもしれないけど、私たちにとっての百年が違う星では一秒足らずということもあり得るよ、十年、二十年寿命が伸びたところで・・・ねー」
 「一つの時代が終わるのですか」
 「人は時代に生きているわけではない、もっと根源的な力の世界に生きて死んでいる」
 「先生には、やり残したこととか、今やりたいこととか、あるのですか」
 「何もない、これで十分。
 死ぬ前に、これこれをしたいなんて思わないよ、したいことと言っても結局は欲望の話、人間の欲望はエンドレス、その虜になって、そんなことを思うから、するから最後まで死を嫌がり恐れ、余計な苦を背負うことになる、それじゃあ楽に逝けるわけがないよ。
 もう思い残すことはないなんてあり得ない話、その方向に舵を切れば思いは途切れることなくやってくる、これで安心して逝けると言うのも同じこと、生きている間に安心するための作業に精を出し、それから死ぬと言ったところで、そんな作業に終わりなどないから。
 どの方向にも舵を切る必要はない、今のこれが全て。
 いやむしろ、自我や我欲から離れた世界に行く準備は早い方がいい、準備不足だと面食らっちゃうし、回りもうろたえるのが関の山」
 「先生は死ぬことなんて怖くもなんともないんですね」
 「死と言っても自然の変状、自然の変状はどれも静なる中に荘厳さを秘めており、そして美しいもの。
 人が死を恐れるのは死そのものではなく、死への過程、脳細胞や心臓が破裂するんじゃあないかとかいう恐怖心、どれだけ苦しむのとかいう不安、後は残された人が心配とか、そういうことで、これは人間の優れた記憶力と多感なる感情と想像力の高さの賜物、一口に言えば想像に基づく感情の問題で、直接生死に関わることじゃあない、人間も死そのものを恐れるようにはなっていない。
 痛みにしても恐怖心、想像力がそこに加わり余計に辛く感じる」
 「それも真実ということですか」
 「ああ、真実は永遠無限の真理ということで、時間や場所によって変わるようなものは真実じゃあない、そんなものは一つの時代や地方の慣習に過ぎない」
 「永遠の真理ですか」
 「ああ、三角形の内角の和は二直角、これは永遠の真理、時間や場所は関係ない、三角形自身が内部にもっている特質の一つ、一つの三角形の存在は必然的にその三角形の特質を含むもの、同じようにこの自然の中にも特質がある、自然は三角形と違い無限の力を有し、無限の特質を持ち、その無限の力は無限に活動し、無限に作用し、無限の本質と無限の様態を産む。
 これが自然の特質」
 「全てはその結果の一つということですね」
 「そう、我々は刻々変わる結果だけしか分からない、それでも、本来全ては永遠無限の世界にいる、どんな形になろうとも、今ここに在ることが真理。
 三角形が三角形として存在するのは、誰かが頭に浮かべたり、紙の上に書いたからではなく、その三角形の特質に起因したもの。
 如何に多くの三角形が存在しようとも、コピーしようが、精密機械をもって描こうが同じ三角形は存在しない、そこにそれとしてある一つの三角形には固有のものとしてのその三角形固有の本質特質がいくつかある、その特質があってその三角形が存在し、その三角形になる。
 その特質故に顕現する、特質がなければその三角形として存在しようがない。
 自然が存在するのはその特質、本質において存在する。
 こうだという特質がなければ存在しない。
 自然は無限の特質を有するがその一つとして様態としての個物の存在がある。
 自然の本質なり特質あっての個物で、その個物も自然の本質である力の一定の表現である以上、無限の本質から導かれた固有の本質特質を有し、それ故にそれとして存在する。
 本当は人間AとかネコBの特質にふれているのに、それが山田さんとかミケちゃんを見ているように思えるのは、その方が個体の存続維持のために便利であろうとする脳の働きの結果で、本質や特質の次元でのふれあいが我々の日常のような外部との関わりに規定される水平的因果関係の世界では、本質なり特質や自然の物質的側面、精神的側面の運動なり関係が可視的表象物に置き換えられる。
 その方が生にとって良いと脳が判断したのか、自然の力は大きすぎて想像すらできないので置き換えざるを得なかったかもしれないが、それ故、そこからいろいろな錯覚が生じるようになる。
 日々、朝起きて、出かける用意をして、仕事に向かう、我々にはそれはそう見えているだけで、実際は自然の力による自己肯定に努めているということ、だが今の現状は、その自己肯定の真の観念から疎外され、何者かに何某かの演技を強要され、一つの枠の中で制約を受けながら自己肯定に努めようとしているだけ、そして自己肯定とは反対の方向に向かいながら、限られた範囲の中で限られた行為を強いられ、限られた時間を終える、悲しい物語は水平的因果関係世界では付き物ではあるが・・・・。
 私たちが今いるところはそこではない。
 永遠無限の広がりの世界の中で、その存在が肯定されている。
 自然の無限の力能によって様態化し、無限に個別化された個体もその自然の本質の表現である以上、本質においては永遠の存在。
 本来有限な個物である我々は永遠を理解することも感じることもできないが、その本質において永遠であるが故に永遠を感じ、また認識できる。
 個別的本質が永遠をみる。
 無限に変状する自然、その一つの変状こそ我々で、我々もまた永遠に無限に変状する、そこにおいて永遠無限なる自然の本質は個別的本質としてその姿を現す、その本質は我々を我々そのものとして、ならしめている永遠なる力としての存在、我々はその永遠なる力の化身であり展開であるが、個物としてどのように変状しても、変状する力そのものは、個別的本質として、自然の力の分有として、その永遠性はいささかも変わることはない。
 なのに人間はその永遠を時間で解釈しようとしたり、無理に無限の一部を切り取って有限化しようとする。
 地面の一部を切り取って、そこに名前までつけて区切りを付けたがる、これも空間の無限性をねじ曲げているだけで、それ以外のことじゃあない。
 無限を切り取って量や大きさという観念を作り、永遠を切り取って時間や過去未来という観念を作る、おかしな話だ。
 永遠無限はどこをどう切り取っても永遠無限なのに。
 時間の概念なり観念などは人間を虜にし、苦しめ悩ますけど、真実の世界ではそんな時間の観念などないから寿命が十年伸びようが関係ないよ、ここの人は自然の流れの中で生きても、時間の中になんて生きていないよ。
 時間なんてものは流れや変化に対する一つの説明手段に過ぎないからね」
 奥野「はい、分かります・・・」
 中村先生「生と言っても、見える生と見えない生がある、世間でいうところの生は見える生。
 円はその本性上、無数の四角形を内包しているけど、我々は誰かが紙の上に書いた四角形しか目にすることはできない、これは四角形をある一定の時間や空間の中という限定された状況下で四角形を見ているということで、永遠無限の見地からすれば書かれていない四角形も円の中に存在している。
 一本の線なり点にしても、その本質があればこそ誰かが鉛筆でそれをなぞれば、可視的になるだけ、誰かとか鉛筆というのは本質のもとに集まる外延的部分の運動なり関係のことだが、本質上はなぞらなくても、その線は線として点は点としてあったし、あり続けるよ。
 本質がなければなぞることも可視的になることもない」
 そのころから中村先生は目も耳も悪くなり、身の回り一メーター四方くらいしか見えなくなり、小さな音も聞こえなくなっていた。
 しかし中村先生に落ち込んでいる様子も困った様子も全くない。
 「これだけ見えれば十分、これだけ聞こえれば十分、一応は身の回りのこともできるし、好きでこうなったわけじゃないが、見えないものは見る必要のないもの、聞こえないものは聞く必要のないもの、外のことが見えなく、聞こえなくなった分、内のことがより感じられるようになったよ、物覚えも悪くなったが、みんな覚える必要のないもの、老い先短い年寄りにとってはラッキーなことだよ、冥土への旅の準備としては最高。
 死んで何もなくなると言うけど、元々物質的なるものと観念、感情の運動以外何もなかった。
 それに、死んで何も感じなくなるかもしれないが、意識に上がって来ないだけで、身体を構成する分子レベルでは何かを感じているよ。
 いや、自然が存在し、自然の力が存在し、自然の運動が存在する限り、その運動の一つの結果である像も観念も感情も感じていることそのものも無くなりはせず自然の中に存在するが、ただそれが意識に現れないだけ、生と死の差なんてこの程度のものだよ。
 自然の中にある無限数の像、観念、感情が無限数の個物、生命体の中に現れている。
 ものが個体身体の意識の範疇外で存在しているのと平行して、その観念も意識とは無関係に存在している、何かからの刺激に対し反応することも無意識の範疇、これは無意識にでも感じているということ、身体の変状を意味している。
 自然の中に何某かの個体が存する限り、自然の中に何某かの感情も存する、その個体は変状してもなくなるわけではないので、観念も感情も同様になくなることはない。
 感じていることそのものも、感情そのものも意識の有無に関わらず存在している。
 その一部が時として、我々の意識の上にも現れるが、全てを意識しているわけではない、そういう意味では死んでいるのとそう変わりはないよ。
 それに体の不具合にしても痛みとして意識しているのはほんの一部、他の大部分は無意識のうちに変状している、体の半分以上はもう死でいるようなもの。
 意識と言っても脳の機能の一部がランダムに作動しているだけだけど。
 生死と言っても案外、見方だけのことかも、こちらから見れば生、あちらからだと死、生きていると勝手に思っていても、天国では、それは死んでいることかもしれないよ」
 中村先生はとうとう床に伏すようになった。
 ある晩、中村先生の枕元に清田さんと奥野が座っていた、二人が「何もかも先生のお陰です」と言うと中村先生は「いやー、私は何もしていないよ」静かに語り、その後も二人の大きな声での問いかけに、まるで独り言のように答えた、その言葉はしっかりしているものの、喋り終ったときは苦しそうに見えたが本人は「別に」と答え、大きく呼吸し、また答え出すということの繰り返しだった。
 奥野「私はここに来て、本当に良かったと思います、人様に迷惑だけはかけたくないと思っていましたが、先生にはご迷惑をおかけしたような気がしまして」
 中村先生「人に迷惑さえかけなければいいとは、社会の道徳や倫理、人間の規範のことじゃあない、自然の共存関係の認識のこと、自然が有する個物間の共存する力の認識で、その共存と人との関わりは別のこと、特別に人のつながり、人とのふれあいを意味するものじゃあない。
 逆に人とのつながりやふれあいを意識しすぎると自然の共存関係がこわれてしまう。
 この共存をこわさない限りでの行為行動は全て等しい、価値の差なんてない、一日中働いてようが寝てようが価値の差はない、全て肯定されている。
 何かを感じ、反応する中で生存の維持を図り、強めようとする、これが全てなのに、何かに接し、刺激を受け、摩擦があって、緊張があって、緩和がある、またそれが繰り返される、ただそれだけのことだが、これは誰しも共通なことで、人間に限ったことでもない、我々の住むこの世界の一つの法則のようなものだが、どこで誰が何に接し、何を感じるかは、それぞれ違うこと、もし共通なるものの中に真理があるならこの誰しも共通なこと、法則的なものこそが真理であって、真理を知ることはこの法則を知るということに通じている、人やものによってそれぞれ違うことは真理ではなく、法則でもない、単なる個人的な日常性の一つで、とりたててのことじゃあない、これは、一連の運動法則に特定の像を貼り付けたもの、それぞれの脳が行う置き換え現象、勝手に置き換えたところで、その現象そのものには特に意味はない、その特別意味のないものを現代社会はどうも、妙な価値観で持って物事なり日常の行為なりを、無理なくらい分けてとらえ過ぎている、本来一つのつながりであるものを小分けにし、実質に変わりはないのに、ことさら区別を設け、そしてその区別にこだわり続けている、だから共通なものを見過ごしてしまい、真理から遠ざかり、焦点が定まらない、不安と虚しさの中での生を常に強要されている。
 共通なるものの認識は真理を認識する上での王道なのに。
 人間の目には違って見えても、自然からすると同じ、全ては自然の力の一定の表現である以上は。
 また逆に分けて考え処理すべきことをごちゃ混ぜにし、己のマイナス感情でもって、異次元のものを一緒に扱い、結び付けてはならないものを結び付けたりしている。
 これは本末転倒、だから真理、法則を理解できなくなり狂いが生じる。
 真理、法則を認識している限り、浮世の波にさらされることもなく、まがいの泣き笑いとも縁がなくなるというのに。
 真理、法則を知るものは強い安定感の上にあって崩れないし、最高の道を歩むよ。
 それに真理、法則を知れば嬉しくなるので面白いよ。
 自然には一定の法則はあっても、それほど細かい価値基準なんてないよ」
 奥野「そうですね、人の行いに価値の差なんてありませんね、それにここでは人間関係なんてないようで、しっかりしたものがあるような気がします。ここでは人との関係で、思い悩むこともないし、ここに来てからは、先々の不安も恐怖も何も感じなくなりました」
 中村先生「「それが本来の姿だよ、でも現代人は遺伝子と環境の関係からか、常に何か不安と向き合って生きている、はじめに不安ありきのように、まるでそうじゃあないと人間じゃあないみたいにね、でもこういう不安感は先天的なものじゃあない、作られたもの、イライラや不自然不必要なストレスが前提になっている現代社会、それで当たり前だなんて不自然極まりない話だ。
 それに不安や苦悩の原因を対象化する、そうした方が楽だから、原因が分からないと益々不安感が大きくなるから。
 でも対象化したところで解決はしない、それを取り除いてもまた次のものがでてくるだけだから、そこでみんな気晴らしに向かうようになる。
 気分転換、何かをすることで不安から逃れようとする、仕事でさえもそういう面がある。
 現代の人間は何かを得るために余計なものまで背負い込んでしまい、もがき苦しんでいる。
 回りから強要されたヘタな価値基準で生の在り方を歪めている人間が多いのには驚くよ。
 人間は脳の構造上、記憶力や反省能力に長けているけど、それ故に自己の存在意義や意味、価値を求めようとする、そして他人と比較したがる、でも我々もその一部を担っている自然の存在と力の中には、人為を寄せ付けない必然性はあっても、そんな意義や意味、価値なんてものは始めから何もない、ないものを求めようとすると、そこに不足、不安、不満感が生じるが、人間はそれを代用物で埋め合わせようとする、その代用物が金や地位や時には恋人であったり、友であったりするが、どれも置き換えられた欲望の代理物に過ぎないから不足、不安、不満感を埋めることはできない、だから思い悩み、その結果、また代理物を求めようとする。
 それにまた、人恋しいと思うのは、先天的とも言える誰しも抱えている自己保存要求に伴う生存不安に対する取り違えられた肩代わりの欲求行為で、錯覚によって生じた欲求を錯覚した行為で埋めようとするもので、錯覚の故に満たされるはずもなく、次から次へと対象や方法を変えようとやっきになったところで、結果は同じところをグルグル回っているだけ。
 その悪循環を断つ環境がここにあるというだけ」
 奥野「何かで何かを埋めようとみんな必死になっているんですね」
 中村先生「「人間身体は自然の物質的側面の運動が可視化したもの、平行する人間精神は自然が有する観念の連結が顕現化したもの。
 個人の精神・思考そのものは自然が有する精神的なるものの一部、個人の身体も自然が有する物質的なるものの一部、個人には全体の機能の一部を表現する力はあっても、全体を表現する力はない、全体の関係の中でその一部として位置づけられている人間が、必然的な自然の全体関係を離れて個人限りで、何かあることについて思い悩んだとしても、それはあまり意味があることじゃあない、むしろ逆に必要ないこと。
 元来個々のものは、それだけとらえれば不安定なもの、勝手に不安がっても、全体はどっしりと安定している、これが人間と自然の関係、人間はどこまで行っても自然の様態以外のものではない。
 あれこれ考えると言っても、結局は満足できない欲望に関係する神経細胞の話、いろいろな思いが生じ、不安感、焦燥感などの感情に振り回され、これでいいのか、もっと良いことがとか思い悩む。
 良いも悪いもない、全てにおいて絶対満足させない機能が身体の中にあり、それが働いているだけ、だから到達点なんて始めからない、このことをまず認識すべき。
 このことを認識も理解もせず、余計で無駄で不自然な像が脳内に貼り付いてしまい、ストレスを抱えている人が多くいるのが現代社会。
 個別的本質の認識から離れたところに満足などあり得ない。
 そもそも自然の力、関連性から離れた思考など成り立たないもの、それは妄想」
 奥野「以前の私の人生は嫌な思い出や後悔ばかりでばかりで・・・辛かったし」
 中村先生「嫌な思い出とか後悔とかは本性に合致しない不自然な生き方を強いられたせい、ここはそんなものとは無縁なところ。
 バカみたいな人間関係もない、人間関係なり何かの関係の中で落ち込んだり、悩むということは、その関係そのものが間違ったもの、そこからきっぱり離れるべき。
 辛ければそこで生きるのを止めればいい。
 別の世界がすぐ隣にあるよ」
 奥野「そうですね、ここに来るまでは、先のことを考えると不安で辛かったですけど、今は思い煩うことなんてありません」
 中村先生「将来のことといっても今、ここで、それを考えているということ、Aという状況下でBという意識なり感情のもとに考えているということ、将来というものが仮にあったとしても、そのときにはAもBも形を変えてCとかDとかになっているから将来が不安だといってもそれは空想の世界のことだね。
 過去の想いも同じこと、空想、幻想。
 本当は過去も未来もない、過去は記憶の話、未来はその話の延長、過去も未来もないからその間の現在もない、あるのは時間を超えた永遠の世界だけ、それが真実だよ。
 それにAやBをクリアーして初めてCについての思考が成り立つというのに、いきなりCについて考えようとする、これは無理なこと、前提条件を無視しては、思考は成り立たない。
 今はそれを考えるべきではないのに、無駄な考えに陥ってしまう。
 考える時期も状況も勝手にやってくる、そのときは直感的に処理できる、それ以外は無心でいく、時が来るまで静かに待つ、それも自然のリズムというもの。
 これはモノの扱いにおいても同じこと、例えば何かが、邪魔だと思っても慌てることはない、慌てて処理してもすぐにまた別の邪魔なモノが出てくるだけ。
 まあ関係のない話かもしれないが、あいつは邪魔だと排除しても、すぐ次のあいつが出で来るのが世の常というもの。
 絶好の機会というものは勝手に現れ、身体も勝手に動く、これも自然の力、計らいを捨て、無心で待つ、これも自然の力。
 無心であれば自然のリズムに乗れる、心も体も勝手に動く、これが結構楽しく、心地よい。
 分からないこと、余分なこと、余計なことなど考えていない、考えない、無心でいるということが、意識としてはないとしても結果として、事実として、自我から離れた自然の思考下にあるということ、無心でいること、空こそ充実の証、空即充、無即充。
 邪念すなわち誤謬、錯覚、我欲、憶測、偏見、無駄な思い、今必要でない考えなど全くない。
 邪念につけ入る隙を与えない、先ずは無、意識上は心を無に、一旦邪念の要因となっている観念、他者他物、時間の観念や言葉から離れ、そして一点のみを見つめる、そうすると自分を感じることがなくなり、代って永遠を感じるようになるが、自然は無限数、種々様々な像や観念を力として有しており、その自然の力の一定の表現者である以上、一定の像や観念が浮かぶのは当たり前で、たとえ脳裏に去来するものがあっても、それらは全て自然の運動結果とその観念であると理解する、そしてその像や観念を言葉で追いかけない、もっとも言葉がなければ追いかけようもないが、結果その段階で、個体は形なき喜びの充実体に変状している。
 お寺での修行の一環としての掃除のようだが、埃を払えば本質が、汚れを落とせば、美しいものが自ずと現れると言ったところかな。
 個別的本質は自らを現そうとするが、自己自我意識や我欲が、それを邪魔建てしようとする。
 しかし、それでも現れ出る。
 この本来性を取り戻すための掃除という可視化した行為を成り立たせているものも個別的本質の存在。
 頭の中が一点の曇りも無く澄み切っているイメージかな。
 この状態でことを為す、これほどハッピーなことはない。
 邪念を排すとこの無の状態になり、それだけで永遠の世界にいるようなもの。
 無の状態とは、端的に言ってしまえば、言葉の世界から離れていること、人間は言葉で考え、何かをしようとする、その人間が言葉の世界から離れるとは、日常的な思考の世界から直感による、ありのままの純粋な自然の力の世界への飛翔を意味する。
 像やその観念はあるが言葉はない世界。
 言葉は像や観念とは次元を異にするもの。
 有限な言葉で無限の自然を説明することはできない。
 言葉では真実をとらえ切れない、言葉は言葉として存在し、それ以上のものではない。
 言葉のない世界は何一つ思えず、思考できず、何もない世界、全て無であるように感じるが、でもそこに何かがあると感じる。
 無や空と言っても、ほとんど無意識ではあるものの、他のものが入る余地がないほどに個別的本質の持つ無限知性において、自然の理法、法則、摂理の認識などで中身が詰まっているということ。
 無限知性は自然の運動法則を理解するが、我々もその法則によって生じているので個別的本質同様、本来誰しも有するもの。
 そして個別的本質同様、そこには我という観念は含まれていない。
 無限知性にとっては全ての出来事は真の認識、必然性の認識の契機となるもの。
 無限知性、個別的本質により常に満たされている。
 完全に真に満たされておれば、それは反って空に見える、中身が満タンなら、もう何も入らない、何も入らなければ何も入れられない、何もなければ、それは空。
 逆もまた真なり、故に空であることはそのまま満ちているということ。
 まあさっきも言ったように邪念を排すと精神は勝手に充実するようにできているけど。
 末端の現象にとらわれず、その本質を見る、誰かのためだけに都合のいい価値観など無視するのが一番、形式的な制約を排し、固有の本質を体感する。
 自然には存在肯定力、喜ぶ力があるように、人間には己の本質の認識に基づき、外部を遮断し、無にも空にもなれる力が備わっている。
 人間の意識の次元ではないかもしれないが自然は空の観念も、無の観念も有している。
 空の観念、無の観念が強力な守護神となる。
 空になれば、無になれば個別的本質の世界が開かれる。
 外部を遮断した中、真実の素晴らしい世界に遭遇するよ。
 誇張も脚色も錯覚もなく自然の力をそのままに認識する思考下にあるということ。
 とりたてて意識すべき対象は何もない、対象など何もないにもかかわらず、楽しく嬉しく感じる、この理由なき喜びは個別的本質の存在があるからこそ。
 個別的本質は存在肯定の観念の塊、感情面で言うと喜びの塊みたいなもの、それにふれることができたときが最高の境地、たとえ一瞬でもそのことが感じられたら儲けもんだよ。
 自然の様態の一部に過ぎない人間が、そのことを忘れると、そこにどうしても欠乏感が生じる、その欠乏感が自己の脆弱さを悟り、虚しさを感じる、そのため自己を強く見せる必要に迫られ、そこから所有欲や名誉欲が生まれる、大いなる錯覚だよ」
 清田「ここは何もないようでも何かがあって充実しています」
 中村先生「空のように見えて満たされている、何もしていないようで没頭している」
 奥野「今まで幸せとは縁がないと思っていましたが・・・ここに来て本当によかった」
 中村先生「真の幸福は真の世界にしかない、真の世界の認識の中にしかない。
 加工された世界にも脚色された世界にもないよ、誤解や錯覚の中にもないよ、嘘がまかり通る世界にもなく、嘘の世界ではもがき続けることくらいしかできないよ。
 それに相対的な関係の中での幸福には、自ずと限りがあるよ。
 ずっと幸福一色というのはあり得ないわけで、もし幸福一色なら幸福を感じ取ることはできないしね、私が言う個別的本質の認識がもたらすものはそのような幸福感ではないけど。
 幸せと言いながら、時には苦しく、辛いこともあるとみんなが言っているが、これは単なる日常の相対体験の話に過ぎないもの。
 その根底に自然の、自然の力の認識、自然の力との一体感がなければ。
 外の世界にしか興味を持てないことが不幸の始まり、外部世界は常に不安定で、そこに幸福を求めてもそれは無理がある。  
 古代中国の思想家は外界の刺激を捨てて、内なる生命の喜びを取った、人間の自然な生命活動を妨げるような欲望を起こさせる原因となるものを避けることこそが無欲であるとし、無欲とは幸福に生きたいという人間の究極的欲望すなわち大欲を達するための手段であるとした。
 意味あることだよ。
 出世を望むのは当然、誰でも高級外車を乗り回したいと思うなど、昨今これらの欲望は当たり前のように言われているが、それは嘘、残念ながらそれで幸福になった人は一人もいない。
 消費社会が作り上げたトリックに嵌るとみじめになっても、幸福にはなれない。
 真の幸福は真の認識がもたらす喜びのこと、過去を振り返ることでも、先を想像することでも、他人と比較することでもない、それらはみんな一抹の不安なり何らかの悲しみを含んだ喜びまがいのもの、生存維持に関する欲望の副産物である生得的な不安などは置くとしても、悲しみを含むものは悲しみで喜びではない、喜びは感情の完成形なので、それ自体として単独のものとしてあるが悲しみはそうではない、他の像と結びついたり、あるいは一人で背負うのはしんどいから分担しようとする」
 清田「私は取柄もなくその上体が弱く、激務について行けず、リストラされ、ここに来るまでは自分は犠牲者なんだと思っていました」
 中村先生「いや、まだ居残っている方が犠牲者だろう。
 組織は全てを食い尽くす巨大な怪物、食い殺されなくてよかったよ。
 組織なり集団、グループでは個人のそれとは次元の違う価値観や目的観が勝手に働き、のさばり出す。
 今、組織とか呼ばれているものは共存を消し去り、そこに競争を当てはめている。
 組織とまでいかない集団やグループでも同じようなことが行われている。
 そもそも誰が何のために作ったか分からない価値観の延長上に組織とかが作られているからね。
 倒錯した価値観が渦巻く中で、不自然、無理なことを続けることは悲惨そのもの、結果は見えている。
 何某かの人が何某かの能力を表現したとき、それが組織の利益に適っていると思われたり、世間から評価されたりすると、その人は才能や取柄がある人とされてしまい、それ故に組織や集団、あるには世間に食われてしまう。
 食われた人は、得るものなどもうほとんどないと分かっても、もうそこから引き返せない、仕方なく無理を承知で組織にしがみつき、無理に頑張って戦っているように演出してみても、心のどこかに空いた穴は埋まらない、何かしていないと不安になり、気分を変えて酒を飲もうが、パーティで盛り上がろうが、スポーツしようが、一瞬は空いた穴のことを忘れるかもしれないが穴は埋まらない、そもそも気分転換しなきゃあならないことが悲しいことではあるけど。
 社会や集団、組織での良き評判も名誉も一時の慰めでしかない。
 中にはそんな世の虚しさ故に酒に溺れる人もいるだろう、そんな人は気の毒だと思われるかもしれないが、そんなアル中にもなれない人は同情もされず人知れず苦しみ続けるだけ。
 根元の世界から離れた人間は食われるよ」
 清田「私はホームレスのときは、まだ他人と比べるところがありましたが、ここではそんなこと考えたこともありません」
 中村先生「ただ単に比べるだけならまだましかも。
 それを超えると悲惨だ。
 確かに他人はいるし、目に入るし、心に入るけど、それで治まっておれば何の問題もないげと、恐ろしくて一番惨めなのは、欲求不満でヒステリック状態になり、何でも自己流に解釈して、頭の中で敵を作り、自己主張することで自己肯定しようとする、最近ではネットへの書き込みもそうだが、やたらに敵対心を煽るようなことをやり続け、自己満足しようとするが、それは無理なことで、人間の本性をぶち壊そうとしているだけで、益々血が上り惨めになるだけ。
 自分の欲求不満、みじめさを覆い隠すために個人を超えた国家レベルのことを考えている振りをするものの、その中身は見え見えで、自分が不遇なのはあいつらのせいと決めつけ、虎の威を借り、より弱い立場の人を攻撃する、それでことが上手く運ぶわけがないのにやり続け、奈落の底から出られなくなり、足掻き続ける。
 こんな悲惨な状況はないよ。
 己の不安感を覆い隠すため、何でも勝手に自分の都合で比較し、悦に興じようとしたところで、やっぱり隣の芝生が青く見えるからかもしれないが。
 青く見えるのは己の目のせいで、関係ない人のせいにしたところで、色は少しも変わらないのに。
 幸いここでは比較の概念や観念などは必要ないし、出番はないよ。
 頭の中で敵を作らないと自己肯定できないような悲惨な状況はここにはないよ。
 それに他者の状況状態を我が身のことと考える置き換え現象もあると思うが、それが全てというわけではない」
 奥野「私もここに来るまでは、自分は不幸の星の下に生まれたと思っていましたが、ここは物で満たされているわれではないですけど不幸だなんて思ったこともないです。
 自分の物が増えたわけでもないし、知り合いが増えた感じもしないけど満たされているんです、苦労もしていないのに幸せになって何か申し訳ない気がします」
 中村先生「物や人との関わりは量や個数の問題じゃあない、数なんて意味ないからね、強いて言えば濃度かな、極力影響を受けず与えずがいいね。
 人間の個別的本質部分は影響を受けず与えずだから。
 それと幸福とは脳が疲れていないこと、心が楽なこと、安定していること。
 決して演じるものではない。
 精神をして、穏やかで安定しており、清々しく爽快であること、これ以上の幸福なんてないよ。
 死の間際も死後もね。
 何をしているか、するかの問題なんかじゃあないよ。
 人間も含めた生物はみな個体の維持に努めているが、それは安定した状態を求めているのであって決して興奮状態、過度の刺激を求めてはいない、個体の本性が求めているものはそんな歪で不自然な刺激ではなく、安定した喜びの中に在るということ、身体面で言うと身体を構成する各物質間相互の調和のとれた安定した運動状態でいること、それが自然をして自然がその維持に努めているもの。
 興奮や過度の刺激を求めざるを得ないというのは、不自然な環境の中にいるということ、その中で精神の安定性が損なわれ、身体を構成する物質間にアンバランスな状態が生まれ身体内の調和が乱れ混乱状態に陥ったということ、そんな不安定な状態を求めるものは個体の破滅を求めるもので、元来そんなものは自然の中にはない。
 別に不幸というものが客観的に実在しているわけではなく不幸という思い、観念が生じてしまったということで、その観念の原因は別の観念でしかない、そんな負の観念の連鎖は、それを生む状況があったということで、その状況を作ったのは個々の人間の物欲我欲と社会全体の間違った価値基準。
 欠乏感が所有欲を生み、所有欲が争いと不幸を生む、でもここにはそんなものはない・・・。
 始めに自然ありき、その力ありきで人間ありきじゃあない。
 それと現在過去未来を超えた今、すなわち永遠の中の個には不幸は存しないし、限定なき無限の中にも存在しない、不幸という観念は過去や未来の思いや比較の中にしか存することができない」
 後から田中さんも竹さんも中村先生の傍に来たが、二人は穏やかな表情を浮かべ終始無言で座っていた。
 清田「娘の学校のことまでお世話になりまして、もう思い悩むことなんてありません」
 中村先生「思いの後に悩みがついてこない、ここでは」
 清田「以前はよく、あれが欲しい、あれがあればこれができるとか、思いましたが今はそんな思いは全くといっていいほどありません」
 中村先生「あれが欲しいと思うのは、今あれを持っていないという状態の説明、自分や他者に対するそのときの不必要な意見表明、それが手に入ったということは違う状態に移行したということで、また違う欲が生まれる」
 清田「そうですね、手に入れた喜びよりも、次の欲の方に関心が向きますね」
 中村先生「それに現代人は自分が欲しいと思っているモノが何であるか本当は知らない、企業や生産者からの提供物をそうだと錯覚しているに過ぎない、だから手に入れても満足しているふりだけしかできない、それを失ったとき悲しみを感じるだけ、本当はそんなあてがい扶持なんて、喜び悲しみの対象でも何でもないのに」
 清田「失うものなど初めからなかったということも分かりました」
 中村先生「一億円失くしても、ボールペン一本失くしても、苦悩という点では脳にとっては同じこと、同じ脳の部位が反応しているだけ。
 同様にどんな些細なことでも、その欲求が満たされれば、大それたことを成し遂げた喜びと同じ喜びとして脳は処理する。
 この仕組みは誰がどこで何をしようが同じこと、序列をつけるようなことじゃあないが、そこにマスコミなり何者かが色付けし、あたかもそれが大それたことのように見せる努力をしているだけで、その努力がなければ、みんな同じになるので、誰が何をしようが誰も感心も興味も持たない。
 余計な脚色、誇張と基準なきジャッジに関わらず、世間からみるとどうでもいいことでも、その人にとってはショッキングなことはあるし、世界的な事件さえ、ボールペン一本がそれを凌駕することもある。
 水平的因果関係世界において物質の集まりである身体は何某かのものから刺激を受け反応する。
 みんな何らかの刺激を受けて、それを個体が固有に悲しみ喜びとして表現しているだけだから。
 水平的因果関係の世界ではそれが全てで、それ以下でもそれ以上でもない、みんなその関係の中で蠢き合っているだけ、取り立ててのことじゃない。
 刺激を受け反応する仕組みがあるだけで、対象云々の話じゃあない、対象は選べないし、よしんば選べたとしても、それで満足できるわけではなくエンドレスな欲望が続くだけのこと。
 それが私たちが現実と呼んでいる世界の様。
 無限の個物間の関係の中で、何らかの刺激を受けると、瞬時に脳のある部位が、己の仕事と言わんばかりに記憶というキャビネから手ごろな像を取り出し、その刺激とその像を即座に結びつけ、そこにある種の感情が生まれる、その速さは意識することもできないほどの速さに加え、この現象は何回も繰り返されるので人間は、これが原因で悲しんでいるとか、これが原因で喜んでいるとか、ああなればいい、こうすればいいとか、ある感情の下にいろんなことを想像してしまう。
 感情は何らかの対象と結びついて初めて感情として意識に上ってくる、一つの刺激であったものが意識上に感情として登場する。
 原因や対象を特定した方が個体の生存に有利と判断する脳とか遺伝子の働きだろうけど。
 だから人間は感情と対象の関係を逆さにとらえてしまう。
 でも本当は感情というバイアスがかかった対象が原因じゃあない、その前提にあるものこそが原因。
 それにボールペンが見つかってそれでオーケーということでもない、また同じことの繰り返しが始まるだけ。
 失くしたことは事実としても、そのことが悲しみの感情と結びつく必然性は自然の中にはない。
 得たものはいつか無くなる。
 求めるものもがなければ失くすものもない、人は何かを求めて、その何かに苦しめられる、道理を知らないものは苦しむ。
 何もないということは邪魔なものがないということ、もう何も必要ないということ、何もないということは満ち足りているということ、何もないことを恐れるのは錯覚。
 元々何もないよ、世間の人もみんな食べて寝て、動いたり止まったりしているだけ、それも一定の間だけ。
 それで十分。
 何かあると思うのは錯覚、あると思う方がイレギュラー、自然の力、自然の本質、その分有であること以外何もない、我々の個別的本質は何も求めず何も必要としない。
 ただ自然の力を認識、肯定しているだけ。
 虚飾は人を狂わせ虚しくする、得るより捨てる方が気分がいい、それだけ本来性が取り戻せる。
 何もないこと、全てなくなったときこそ個別的本質の世界、真実の世界に入るチャンス、天国に行けるチャンス、一方の門が閉まれば、他方の門が開かれる。
 真理の認識と虚偽や錯覚、この目には見えない僅かな認識の差が幸不幸の分かれ目、天国と地獄は紙一重」
 中村先生は「ああ・・・ちょっと休むよと」と言って目を閉じた。
 死にかけている中村先生はネコさんと語っている夢を見た。
 ネコさん「亡くなるらしいですが、変様する身体、それに対応している精神、変様させる力と変様する力が一つになって、あなたは完璧ですね」
 中村先生「そのとおり、この反応する身体、それに対応しているこの精神は天のあるいは神のあるいは自然の延長と思惟の現れそのものです、完璧です。
 世界の物質的なるものは不可分、一つのもの、全てがつながり合っています、精神的なるものも同様。
 延長世界、物質的世界は全てがつながり合っており、そこに空虚は存在しない、存在しない故に、各個体身体は常に影響を受け、刺激を受けている、各個体身体が、つながりを持たず、実体として独立しておれば他から何の影響も受けることはない、精神的世界も同じこと。
 我々の個々の思いは自然の属性である思惟の様態、我々の個々の身体は自然の属性である延長の様態、どちらも自然の属性の変状。
 全ての物質的なるものは実体である属性の変状であって独立に存在しているものではない、精神的なるものも同じこと。
 これも自然の中の一つの世界、水平的関係世界。
 誰の身体がどう動いて、どう変状しようが、あるいは何も変状していないように見えようが、全て永遠無限なる自然の延長の変状、誰が何を思おうが考えようが、あるいは何も思っていない、考えていないように見えようが、全て永遠無限なる自然の思惟の変状。
 生きようが死のうが、形がどう変わろうが私の身体的なるものは、その延長世界に、対応する私の精神的なるものも、その思惟世界に永遠に存在する。
 この人間のこの身体も、あの人間のあの精神も自然の無限の関係関連性の現れの一つ。
 自然はその無限なる力故に無限に活動し無限に変様する、その本質ごとに無限に個別化する。
 そして本質の元に集まったものは離散し人間には見えなくなるが、個別的本質もその観念も自然が存在する限り消えはしない、全てがなくなることはない。
 気体化しようが細菌のようになろうが。
 自然において個と無限は対立しない、永遠無限の存在である自然は、一つの有限な個物としてもその姿を表している。
 自然の本質は個物において開花している。
 自然はその本質において無限に展開し、無限無数の個物を含み、無限無数の個物は自然の本質を含み、その本質を個別的に表現している、個物の中に自然の本質を、自然の中に個物の本質を認識する、無限即個物、これが自然の姿。
 私も世界も変様する、私も世界も変様する、永遠に存在する力、無限に変状する力、全てはその力の現れ、全ては自然の力。
 動く力、止まる力、感じる力、思う力、全ては自然の力の現れ。
 その力、その自然は永遠。
 私が死のうが生きようが、見えようが、見えまいが永遠の世界にいることには変わりはありません、永遠とは存在そのもののことで存在の形のことではありませんから。
 自然の様態として存在していることが全てで、どんな形で何をしているかは関係ない。
 本質の元に集まった外延的部分もその形は変わっても無くなることはない」
 ネコさん「ええ、どんな形であろうと天の存在と力を表現し続けていくでしょう。
 どんな形であってもそれが全て、限定も比較も何もない、これがある、それが全て、それこそ天の力、本質を表現するもので、それは永遠」
 中村先生「それが自然の真理、原理、道理」
 ネコさん「道理を知る者は真理を明らかにし、物の変化と共に在り、物の変化に動じない、天の道理、天の知を知ればこそ動じない、天の知を知り、常心を得、天の道を外れず、根源の世界から離れない。
 認識は力、天の道理を知るものは強い、道理は真理、それを知るものこそ幸せです」
 中村先生はゆっくり頷いて目を閉じた。
 それからの中村先生は呼びかけや、何かに対しての反応は示すものの、また時として苦しそうにも見える表情はするものの、ネコさんが言うには、この段階での反応は人間的な意識の範疇ではなく、物理的な単純生命反応で、たとえ苦しそうに見えたときでも、もう苦痛を自覚する機能は失われているので、本人は楽なもので苦しんではいない、声を発してもそれは自覚にも意識にも関係しない一種の物理的化学的反応で、生と死の線引きをしたがる人の中にはこの段階で人間の死とする人もいるとのこと。
 そして、中村先生は静かに息をひきとった。
 その表情は穏やかだった、微笑みさえ浮かべていた、苦しかった時もあったかもしれないが、それは本人にとって、意識にも記憶にもなく身に覚えのないことで自分とは関係のないこととして処理していた。
 中村先生は現状の痛みもその観念も自然の中に個別的本質の範疇外で存する無限の物理現象とそれに対応する観念の一つと考え、それを自身のこととしては捉えなかった、いやむしろ自身のこととするのはおこがましいとさえ思っていたかもしれない、痛みを感じるとすればそれは自然の運動、平行する観念と、ある個体における運動、平行する観念との一つの共鳴現象であると。
 痛みの観念に自然の力を感じ取っていたのであろう。
 無限知性においてそれを認識、理解していた。
 個別的本質の認識から導かれた精神の能動性によって、そのことを理解し、認識しているが故の心地よさ、清々しさだけは自身に関係するものと思っていたかもしれない。
 自然の一つの変様を肯定し、喜びを感じていたようだ。
 本性に反する感情から離れ、人と競わず、己と争わなければ人間楽に死ねると本人が言っていたとおりの安楽死だった。
 未練も思いもなく、何事もなかったように苦もなく楽に逝ってしまった。
 奥野さんは「先生」と優しく呼びかけ、清田さんも、優しく中村先生の手を握りしめた。
 二人の目には涙が溢れていたようにも見えたが、その表情は中村先生と同じように穏やかなものだった。
 この中村先生とあの中村先生は、同じ自然の中にありながら、全く違う現象、先生が亡骸になったわけではなく、全く別の個物であると、彼らなりに理解していた。
 中村先生は死んでも人を悲しませることはなかった。
 田中さんと竹さんは無言で中村先生を見つめていたが、しばらくして田中さんがポツリと喋り出した。
 「先生にとっては死も永遠の生命活動の一部、自然は無限の力で無限の現象を生む、自然の変化は先生の変化、どんな変化の中でも先生は根源の世界から離れなかった、死んでも無限の変様の世界に生き、死んでも変様し続けているのが先生、永遠無限の中にしか先生はいない」
 奥野「先生は天国に行かれたのですね、神様はいらっしゃるのですね」
 田中「先生がいつも言っていた自然が神、神という一点から全てが始まり全てが治まる」
 清田「宇宙のビッグバンみたいですね、一点が大きく変化し、様々なものが現れては消え消えては現れる」
 奥野「先生はよくおっしゃっていました、宇宙の情報を脳に埋め込んだマイクロチップに送れば居ながらにして宇宙旅行を体験できるらしいが、それよりもっと簡単に、別にロケットなんかに乗らなくても、自前のもので別の世界に行ける、無理に死ななくとも天国に行ける、安楽の地に行けると、それがここだったのですね、体が動いている限り、嫌な気分にもなるときがあるかもしれないが、ここには悲しみの感情も苦悩もないと、生命の根源という一点にふれている限り、そんなものが入り込む隙間はないと、ここに来てからは心が晴れて、気持ちが落ち着きました、私はもうそれで十分、他に何もいりません」
 竹さんは一点を見つめたまま、かすかに聞き取れるくらいに言った。
 「先生はここにいる、みんなここにいる」
 最後にネコさんが言った。
 「この世の人は勘違いしている、自分をあたかも独立した実体のように考えている、真に存在しているものこそが実体で、昨日はあったが今日はない、今日はあるが明日は分からないというようなものは真の存在ではなく、実体ではない、一つの可視的現象に過ぎない。
 真の存在は時間の概念を超えて在るものでそれは永遠の存在。
 実体の本性は存在を含むが、個々の人間身体の本性は永遠に変状する力は含んでも存在そのものは含まない。
 いつか亡くなるような個体そのものは実体ではなく、実態の様態。
 その様態としての個体をその個体としてならしめている力こそ実体である。
 実体とは永遠無限なる存在のこと。
 実体の完全性、充実性とは無限の力能、すなわち無限に変様する力。
 私たちが目にすることができるものは実体のある属性の変状であって実体そのものではない、実体の属性は不可分であって完全に充実した一つのものであり、その一つのものの部分的変状、すなわち様態が個々の身体であり、また個々の精神。
 永遠無限なるものはどこまでも永遠無限、その一部であるものもその本質上、永遠無限。
 完全充実なるものの様態もまた完全充実なるものの本質の分有である限り完全充実。
 それ故に様態である限りの私たちもまた、その本質において完全で充実したものであるが、自然の力の一つの様態である個体を実体だと考えるとそこにどうしても欠乏感が生じる。
 なるほど個人の脳の中には欠乏感があるかもしれないが、個人の脳は天のそれとは違う、個人の脳も実体ではなく、あくまで自然の様態、個物で、様態、個物は自然の全てを説明することはできない。
 天と下界では価値観が全く違うように、世間の思考と天の思考とは次元が違う、世間の見方と天の見方は違う、天は時間の中でものを見ない、消滅の中に生成を、生成の中に消滅を見る。
 天の知は大知、大知は無限の中に個を、個の中に無限をみる、人間の知は大知の一部が顕現化した小知、小知で大知を推し量ることはできない。
 無限なるものを有限な思考で説明することはできない、感じる力、思う力を通じて体感できても説明はできない。
 いや、天を、天の力を知る人は、立錐の余地がないほどに天の観念で満たされ、満ち溢れている。
 しかしそれについては言葉で言い表すことはできない、それは思考の範囲を越えたもの。
 感じ取り、体感するだけだか、それで十分。
 有限なる私たちは永遠無限なる実体の力の全てを目にすることはできないが、部分的な現れは目にすることができる、それが先生の変様、私たちの変様、世界の変様。
 永遠無限なる実体は完全であり、今更事物個物をつくりはしないが、その力故に、そのものに様態化し、変状し続ける。
 私たちは実体のごとき力は持ち合わせていないが唯一の実体である自然の様態として在り続ける」

 火葬のみの葬儀だった。

 そして何年が経ち、田中さんも、竹さんも、奥野さんも、最後に若かったが病気がちだった清田さんも中村先生の後を追った。
 彼らはどこへも行かずこの地でネコさんに看取られ昇天した。
 誰がいつまで生きていて、いつ死んだのか。
 メンバーの誰も分からない、誰一人自分が死に逝くことに関心を示さず、知らなかった、朝起きるのを忘れていただけだった。
 安らか過ぎる死だった。
 彼らは皆、死の直前まで変わらぬ日常の中にいた、そして忽然と視界から消えた。
 彼らの姿は見えなくなった、その本質に付随していたものは形を変え視界から消えた、ある現象とそれに対応する観念が人からは見えなくなった、ただそれだけだった。
 その中身や内容には関心がない彼らも何かを感じ、それなりの思いもあったが、ただ彼らの思いの中には他者に関する観念や過去や未来といった時間の観念は含まれてはいなかった。
 外見という己の肉体に関わる思いさえも。
 代って彼らの脳内には自然の力に対する観念が剥がれ落ちることなく、常に貼り付いていた。
 たとえ、表面上は日常に関わることを考えているように見えても、その奥、根底には次元の違う真の像が脳内に貼り付いていた。
 存在を肯定する力の認識を象徴するかのように、一点の曇りも無く清々しく澄み切った青空のごとくあるものが常に貼り付いていた。
 彼らの行為は自然の運動であり、その思いは自然の精神てあり、観念であり、その行為も思いも自然の力を表現するもので、その力の下に、自然の個物として、それぞれがそれぞれの在り方で自然の力を各々に表現しているところの万物と春を楽しみ、喜びを感じていたが、彼らはそれを意識することはなかった、意識はしていないものの、今ここで何をすべきか、何を避けるべきかを明確に認識し理解していた。
 いやむしろ、それ以外のことは一切頭になかった。
 喜びを迎え入れ、一切の悲しみを拒否する自然の個物の姿が、その本来性から離れない姿が自然の中にあるだけだった。
 運動する自然の中で、何かから刺激を受け反応し、何かを感じ、体も何某かの行動を起こす、身体も精神も固有に変様する、その固有の変状自体と喜びの感情が彼らの中ではつながっていた、それは自然の力の肯定であった。
 彼らの姿は見えなくなったが、感じること、思うこと自体はこの自然の中にあり続ける、今日も誰かがどこかで何かを感じ、何かを思っている。
 観念も感情も自然の力として自然の中に存する。
 自然の中にある観念や感情が局所においてそれぞれの形で知覚されている。
 自然自身が何かを感じている、ここで、これを感じている。
 感じることも思うことも個人を超えた自然そのものの活動であり、彼らはそれを肯定し、局所的に個別的に表現しただけだった。
 彼らの中にある自己とは、自然の力を個別的に表現する力としての自己であり、自他対立の意識の中にある自己ではない。
 自らの力で存在し、様態化し変様する自然は、その本質においては自己肯定以外に何もしていない、その自然の一部である彼らもそうであった、そしてそれを喜びという形で表現しただけだった。
 邪心なく見事に表現した。

 墓もなければ写真も記録も何もない、彼らがここにいたことを知る人もいないだろう、根源の世界にいる彼らにとってそんなことはどうでもいいことだった。
 身元不明で共同墓地に葬られようが、骨もろとも吹き飛ばされようが、自然と一対一の関係の中に在り続ける彼らにはどうでもいいことだった。
 何かを得た分、何かを失う。
 彼らは何かを得るために何かを捨てたかもしれないが、それは代償を払ったということではない、ただ捨ててよいものを捨てただけだ。
 彼らは自然の様態としての個物としての自己を直接的に受け入れていただけだった。
 彼らはどこまでも自然の一部であり、自然を人間に置き換えなかった。
 彼らは自然の一様態であるが、同時に自然が有する個別的本質である。
 彼らは社会や世間の価値観から離れたところで、その生を謳歌し、またその死を謳歌している。
 それは永遠無限なる自然自身の謳歌であっても、その自然の一部である彼らの謳歌でもあった。
 個別的本質自身の謳歌である。
 彼らは人生を生きずに、その個別的本質に生きた。
 そして今も生き続けている。

 みんな消えてしまったが、誰だか分からない個別的本質は消えずにある。
 形は消えても永遠無限なる自然の力の分有である個別的本質は自然が存在する限り消えることはない。
 自然が有する無限数の本質は減ることも消えることもなくなることもない。
 残ったものはこの形なき喜びの充実体だけ、余計なものがそぎ落とされた一個の充実体。
 彼らは意識の外でこれを認識している。
 彼らにはもう自分という存在も観念もなかった、消える前から既になかった、あるのは輪郭さえ分からない、誰の本質か分からない、匿名の本質だけで、生きていようが、死んでいようが、彼らは意識の外で、その匿名の本質を我がものとし、その本質は色とりどりの模様の世界にあっても、澄み切った色合で、個として完全と存在している、そして喜びに満ち、安らいでいる。
 ただ誰の本質が輝いているのか、喜び安らいでいるのは誰の本質か、それは分からない。
 誰の目にも映らない。
 ただそこに、正体不明で誰だか分からないが、全てを肯定し、善しとする充実体としての個別的本質、それがあるだけ。

 それから何日かが経ち誰もいなくなった「自然郷」に長い髪の美しい、スタイルのよいジーンズ姿の若い女性とスーツ姿のメガネをかけた理知的な感じの女性が立っていた。

 ミコちゃんとあの木村議員だった

 二人は「自然郷」を後に去って行くネコさんを見送っていた。


 

何とか太郎さん終活

何とか太郎さんしゅうかつ

 

 

私がA市役所の係長のときです。

課長「あなた係長でしょう、それくらい自分で処理してよ、あなたの直属の部下でしょう、私なんか係長時代、誰も助けてくれなかったわ」

私「じゃあ、私に任せていただけるのですか」

課長「そうよ、あくまで市の方針に基づいてよ」

私「市の方針ですか、どんな?」

課長「課の職員としての立場をわきまえ、円滑な業務が図られるよう部下を指導するのよ」

私「円滑に、ですか、彼は市民からの要望に真摯に答えようとしているだけなんですが」

課長「それで結果的に部長に迷惑がかかるなら円滑とは言えないでしょう」

私「いえ、迷惑はかからないと思います」

課長「責任の話よ、もしうまくいかなかったら最終的には部長の責任になるのよ」

私「うまくいくように協力体制を築いていくつもりです」

課長「それでもダメなら部長の責任になるのよ」

私「課長や部長の責任の重さは理解しているつもりですが・・・」

課長「だったら説得しなさいよ」

私「彼の提案を却下しろということですか」

課長「誰もそんなこと言っていないわ、あなたが責任を持って部下を指導するということよ」

私は彼に提案を断念するように説得しましたが、彼は理由が分からないと納得しませんでした。

それ以来部下との仲が円滑でなくなり、私の話し相手は課長と部長だけになりました。

次の年、私は課長に昇進しました。

課長になると状況は益々厳しさを増しました。

ある重要課題が突きつけられたとき、係長から難しい判断を迫られ、部長のところへ相談に行き指示を仰ぎ、それを係長に伝えましたが、係長からは弱腰だと突き上げられ、他部署の課長からも叱責され、後日部長からは「そういう意味で言ったのではない」と突き放され、あげくの果てには関係団体や市民に誤り続ける始末でした。

私自身は何が何でもイエスマンに徹しようと思ったことなどありませんでしたが、回りの目は凍てつくような冷たさでした。

家に帰って主人に相談しても「あの部長には世話になったから、迷惑だけはかけるな」と相手にされず、おまけに娘も反抗期なのか中々私の言うことを聞いてくれません。

そんな日が続く中で私はとうとうストレス性疾患で入院する羽目になりました。

退院してからも体の調子が芳しくなく、体重も減っていくばかりでした、同期の職員からは別人のようだとも言われました。

体の不調を抱えて仕事をしてもうまく行くはずもなく、辛い日の連続でした。

別に出世しようと思って役所に入ったわけでもなく、上司の指示に従っていたらいつの間にか課長になっていただけです。

どんよりとした気分のまま一日を過ごす日々が続きました。

こんなことを繰り返しながら老けていき、やがて定年になるのかと思うとやるせなさで一杯でしたが、それでも私は仕事を辞めず市役所に居続けました、他に行くところもなく、別の選択肢を探す余裕などありませんでした。

私はどんよりした気分をずっと引きずったまま定年の日を迎えました。

その日も終わりが見えない辛く寂しい日に変わりはありませんでした。

もう市役所に行かなくてもよくなったのですが、他に行くところなどありません、あるとしたらまだ行ったことのない天国ぐらいでしょうか。                                               


B市役所の男性は妻と死別し、子どももいなかった。

彼は毎日のように遅くまで仕事をしていたが、上司の評価は気にせず、市民のためとかいう意識も全くなく、人が嫌がる仕事を自ら買って出るというタイプではないものの、どんな仕事でもただ黙々とこなし、全ての仕事をマニュアル化、データベース化していた。

時間をかけて作成した便利なツールであってもそれを他の職員が利用するかなど、彼には関心がなかった。

どんな便利なシステムであっても最初は難しそうに見えるのものだから、その場しのぎで精一杯の職場では強制しない限り、真剣に取り組む職員などいないということを彼は知っていた。

それどころか彼は自分の勤める市が赤字になろうが黒字になろうが関心はなかった。

彼が市の方針などに興味を持つことはなかったが、自分の仕事の成果にも関心がなかった。

彼にとって結果は問題ではなかった。

仕事といえども、食物を自分の胃で消化するがごとく、日々の生命活動の一つに過ぎず、一つのリズムであり、その域を超えるものではなかった。

そもそも自分の意志で仕事をしているという意識が彼にはなかった。

自分を超えた何か大きな力が自分を行動に駆り立てていると感じ、そして彼はそのことを無条件で肯定していた。

あるとき同僚が「君の仕事ぶりを見ていると明日なき戦いという感じだね、結果を気にすることもなく、これといった展望があるわけでもなく、何も考えずにただチャレンジのみという感じだね、俺なんかつい考え過ぎてしまうけどね」と言うと彼は「この頭で考えることもないし、チャレンジしているという意識も全くないね、明日なきはその通りかもしれない、以前は頭の中に明日というものがあったかもしれないけど、頭の中からそれが消えると、もう明日も明後日もないよ」と当たり前のように答えていた。

明日を考え、明日に欺かれてきた彼には明日という観念はいつしか消えていた、明日という想像物は観念がなければ存在できない、彼にあるのは現在過去未来を超えた今だけだった。

また彼は、人は自分で考えているつもりではいるが実はそうではないと思っていた。

『自分で考えているつもりでいることはできるが、自分の力で考えることはできない、全ては自然の中にある何かの力に自分の体が反応しているだけ、それを反省能力の一種である意識が後追いして感想文のように言葉に置き換え自分が考えていると思っているだけ、自然は様々な現象を生むが、その一部として個々の人間がいる、それだけだ、それでいい』彼はそう思っていた。

職場での肩書はないものの、彼はそれなりの存在感を示し、人づき合いもいい方であったが、上司のご機嫌伺いをするタイプの人間ではなく、上司の意見もしばしば無視してきた。

そんな彼の引き際は淡泊であった、B市では定年を迎える職員の大半は定年後も嘱託員として雇用される制度を選んでいたが、彼はその制度には見向きもせず、黙って市役所を去った。

職員間では、あんなに仕事熱心の彼があっさり仕事を捨てたということは、別の仕事が決まっているのか、金に余裕があるのか、それとも体の調子が悪いのかと言った噂が立ったが、どれも的外れだった。

彼はただ一幕を演じ終わったので舞台から降りただけで、そこには過去への郷愁も仕事への未練も何もなかった。

彼にとっては仕事も職場仲間もすべて流れ去ったもので、心に留めるものではなかった。
 
彼をして未だ生に留め置くものは、自我でも意志でもなく、自然の一つの現象、一つの様態、一つの個物としての自分の中に働く自然の力であると彼は感じていた。

そんな彼には将来への希望も不安もなかった、彼はただ悠然と来て悠然と去る道すがらに、居るだけだった。


今日で私は七十歳。

 別に誕生日を家族で祝って欲しいなどとは微塵も思っておりません。

 娘が一人いますが、嫁いで今は主人と二人です。

 娘は時々孫を連れて、ため息をつきに帰ってきますが、私も主人も娘の旦那さんに気を使い早く帰るよう促します。

  娘たちが帰った後、今度は私たちがため息をつきます。

 子どもや孫に囲まれて楽しそうに笑っている私の写真をあるとき、ある男性に見せました。

彼は写真の中の私のことを『奥さんも大変ですね』と言いました。

 『幸せそうですね』とでも言ってくれるのかと思いましたが、彼は私が被っている仮面には興味がないようです、私の祖母としての演技にはコメントなしでした。

 彼は飾りに包まれた私には興味がないようでしたが、そのことが返って私の癒しになっていきました。

 彼は私に『ごくろうさん、もう芝居は終わりましたよ、幕は下りましたよ、さあ化粧を落として』と言ってくれたと思っています。

 彼は私に『現代社会は不自然社会、誰かが勝手に作り上げた価値基準の中で、もがき苦しみ病んでいる、したくもない演技をさせられ、そして不自然に苦しんだ心を不自然な方法で癒そうとしている。

もういいでしょう、そろそろ本来ありたいと願っている自由な心に、誇張も脚色もないありのまま世界に帰っても』とも言いました。

私がいつか『今こうしていられるのは主人や周りの人のお陰だと思っているのですよ』と言ったとき彼は「無理にそう思うことはないですよ、そう思わざるを得ない状況は理解できますし、そう思うことで、言い知れぬ不安感や空虚感を隠そうとする気持ちも分かりますが、それ自体まだ何かを演じようとしている証で、いくらそんな無理な演出をしても心の空虚や苦悩は埋まらないし、むしろその反動が怖いですよ

今あなたがここにいるのはご主人や回りの人とは関係ないですよ、なぜってそれらの人はあなたの存在を維持するためにそこにいるわけではないですから」と言いました。

また私が「虚しさや苦悩ってどうして生まれるのですか」と聞くと「空虚感などの苦悩を感じるのは、何のために生きているのかとかわけの分からない、答えが出るはずもない自分探しみたいな衝動がきっかけでしょう、そもそもそれが錯覚、演技の始まりですよ、人はそんなこと考える前からいるべきところにいただけですよ、後から何かを付け足してホッとするのもいいけど、人間それだけでは満足できないので次から次へと自分の存在理由と意義を追い求め、最後は疲れ果ておしまい、レースもバトルも何も開催されていないのに勝手にスタート位置についたり、相手もいないのにリングに上がって勝負を挑もうと一人気負っているうちにジエンド」と言い、私に仮面も演技も、もう要らないと諭してくれました。


  彼は、今は一人暮らしで公園の前のマンションに住んでいるとのことです、奥さんは十年前に他界し、子宝にも恵まれそうになりましたが、病身の奥さんのことを気づかい、また医者の助言もあって中絶を決意したそうです。

   彼は頼まれると断れないタイプのようで退職するまで人にお金を貸し与え続け、貯金はほとんどないとのことです。

  彼と意気投合したというわけではありませんし、会話もずれてはいますが、彼は私にとっては何となく魅力的な人です。

私が彼に何か言うと、独特な世界観から逆説めいた反論が返ってくるのがとても面白いのです、でも時には私を慰め、励ましてくれているように感じることもあるのです。

  私はそんな彼の話に期待し、いつものように自動販売機で緑茶を二つ買っていつもの公園に行きました。

公園に行くといつものように彼がベンチに腰を下ろしていました。

彼の名前は『ヤマ』何とか太郎さんです。
  別にはっきりと覚えなくてもいいと思ったので、私は彼のことを太郎さんと呼んでいます、年は確か私より三つ上だったと思います。

太郎さんは現在終活中とのことですが、と言っても世間で言われているものとは全く違う終活です。

私と太郎さんは、ただとりとめもない話をするだけのお茶飲み友達です。

太郎さんも私も同じ市ではありませんが共に市役所OBです。

 

   太郎さん「奥さんは今日が誕生日なんでしょう」

  私「はい、七十になりました」

  太郎さん「夜は誕生日パーティーですか」

  私「それはないです、別にしてもらいたいとも思いませんし、今は主人と二人きりですし、でも若いころはそれなりに楽しみにしたときもありましたよ、一週間前から計画したりして、でもそんな時に限って、仕事の都合で帰れなくなったり、主人や娘の都合でたった一人のバースデーになったりしましてね、どうも期待するとよくありませんね、何事も」

  太郎さん「確かに期待するとね、期待しなきゃあいいようなものですが、でも期待していなければ、予期せぬことが起こったとき、それが良いことであっても驚きの感情の方が大きくなり、肝心の喜び、嬉しさは影に隠れてしまいますね、まあ後で感想文のような形で嬉しかったと思うことはありますが、リアルタイムなものじゃあないので喜びの感情そのものは、何となく脚色めいたものになっちゃいますね」

    私「そのとおりですね、嬉しさを演じてしまうようなところがありますね、おかしいですね人間って」

  太郎さん「奥さんの場合、ご主人も市役所OBでしたね、元部長で、奥自身も元課長、おまけにご主人の実家があの有名な造り酒屋でしょう、奥さんの実家も名家で、言うことなしですか」

  私「今さら何も言うことはありませんが、それは市役所での地位とか実家とかの話とは関係ありませんよ」

  太郎さん「まあ、そうでしょうね」

  私「主人が部長で、私が課長で収入は多かったかも知れませんが苦しかったことしか思い出せませんよ、まして実家のことなんて考えたこともなかったです、そんなことを考える余裕はなかったですね」

  太郎さん「相当ご苦労されたのですね」

  私「ええ、精神的にギリギリまで追い詰められたことも何回かありましたよ、夫婦そろって入院もしましたよ」

太郎さん「役所仕事の場合、賃金は労働の報酬というより苦痛苦悩への弁償という面が強いですからね、精神をすり減らした分をお金に換えているような」

私「今の世の中では役所だけに限ったことじゃあないかも知れませんが、全くそのとおりだと思いますね、市の職員は口には出せませんが内心はみんなそう感じていますよ」

太郎さん「それでもみんな辞めない、今だけの辛抱とか、無事定年退職の暁にはやりたかったことを思う存分できるとか、みんなそう思っていても、いざリタイアしてみるとやりたいと思っていたことが、思っていたほどのことでもなかったとか、なぜあの時はあんなことを夢見ていたのかと不思議に思うとかよく聞きますね、結局はそのときできないことだからこそ、憧れになったということでしょうね」

  私「確かにそれはありますね、そのときできなかったから夢に思えたのでしょうね、それに人間日々変化しているので、あの頃の私と今の私が同じ訳ありませんからね。

主人はよく、将来二人で豪華客船に乗って世界旅行をしよう、そのために今頑張っていると言っていましたが、今になってみるとその夢にさほどの喜びは感じませんね、でもあの頃はこれが目標、二人の喜びだと無理に思うしかなかったようですね、薄々は無理していると感じてはいましたが・・・結局その目標も喜びもイミテーションで、私が求めていたものとはかけ離れたものでした」

太郎さん「みんなそうですよ、これが私の目標、これこそ求めている自分の喜び、この人こそ生涯のパートナーと始めから決めて思い通りになった人なんていませんよ、みんな紆余曲折、回り回って、いつの間にか思いもよらなかったものが目標や価値基準の一つになってしまったということでしょう」

私「そうですね、私なんか今の主人こそ生涯のパートナーだと決めて結婚したわけでもないし、年をとってからお茶飲み友達がいた方がいいかなと思って結婚したくらいですよ、

でも私が描いていたお茶飲み友達とは随分イメージが違っていますが、こんなこと主人に聞かれたら怒られますよね」

 太郎さん「別に怒られはしないでしょう」

 私「お互い様ですか」

 太郎さん「連れ合いはいつも近くにいる人、それ以上の定義は要りませんよ」

 私「でも、みなさん最初は好きだから一緒になりたいと思っておられるでしょう、それが段々空気みたいな存在になっていくとよく言われますね」

太郎さん「空気ねぇ、リズムが近いということが一番でしょう」

私「お互いのリズムですか」

太郎さん「そう無意識のリズム、自然のリズムで一致すれば美人とか美男子とかは関係ない、互いを意識させないのが一番、互いの存在が邪魔にならないのが一番でしょう。
  無理に好きにでもなろうとすると、そのしっぺ返しがきついですよ、本質の次元では共存関係にある他者のことを、ことさらに意識すれば逆に競争心が生まれ、競争心が敵対行為へ、これじゃあお互いに傷つくだけで共存は無理ですよ」

私「実は私、今はそれほど娘や孫のことに興味があるというわけではないのですよ」

太郎さん「それでいいですよ、子どもや孫といっても他者ですから、他者のことが気になったり、他者についての観念が入りすぎると、ああなって欲しいとか、こうなればいいのにとか、結局他者に対する支配欲が強くなって、年寄りになったときなんか子どもに付きまとい嫌われるのがおちでしょう」

私「子どもや孫が生まれたときは興味津々でしたし、主人と付き合った当初もそうでしたね、でも今は」

太郎さん「人間には耐性もありますが、同時に人間は飽き性でもありますから、ずっと同じところにいることも同じ視点に留まるということもないでしょう、他者への思いや感情も変わっていきますよ、そんなに長く続きませんよ、だからそれでいいじゃあないですか」

私「この年になればそれでいいかも知れませんね、若い人はそうでもないかも知れませんが、一途というか、もっとも若い人も直ぐに年寄りになりますが、あれよあれよと言う間にまるで別人のようになっていきますね」

太郎さん「そう、生まれたときから形は常に変わっていますよ、回りも変化し、自分も変化しますね、無限に。

   でもどう変化しても私は私である以外にありませんし、その変化の一つが死と呼ばれているものであっても、それでも私の死には違いないことですから」

私「いつかは死にますからね」

太郎さん「自然のサイクルの中にいますからね」
 
 私「この年になるとつくづくそう思いますね、人間死んだら何もかもなくなると思いますが、よく考えてみると初めから何もなかったような気になるときがありますよ」

太郎さん「本当は初めから何もなかったかも知れませんね、あると思うのはその人の脚色力でしょうね」

  私「そうかもしれませんね、ところでお体の調子が悪いとおっしゃっていましたが、病院には行かないのですか」

  太郎さん「病院?行きませんね、高い金を請求されてもね、ありませんから」
 
私「人の命もお金次第なんですかね」

  太郎さん「私の知り合いが言っていましたが、ある人がガンになり、その治療に月々二十万くらいかかるそうで、その人は「そんな金はないからとりあえず死ぬよ」と言って亡くなったそうです」

私「なんとかならなかったのですか」

  太郎さん「知り合いも金はなんとかするからと言ったそうですが、その人は「無理しなくてもいいよ、こっちも返すのが大変だし、そっちも大変になるよ、友情の尊さもテレビドラマのようには中々いかないよ」と涼しい顔で答えたそうです」

 私「残酷な話ですね」

 太郎さん「確かに残酷かもしれませんが、知人が言うにはその人は、この先、回りも金銭面などで苦労し、自分自身も苦痛苦悩にさいなまれ、共に悲しみの感情を背負うようなことはもう止めようと言っていたそうです、まあこういう現実も受け入れて行こうとその人は思ったのでしょう、背景にはいろんなことがあったとは思いますが」
 
 私「太郎さんも生活が苦しいということですか、日々節約ですか」

 太郎さん「節約ですか、そういうことはないですね」

 私「お金には無頓着な方ですか」

 太郎さん「それぞれがありますよね、人って、いくら金銭面で得をしたと思っても、心穏やかでなければ何の意味もないと考える人は、イライラ、焦り、猜疑心、不安、怒りなどのマイナス感情から逃れ、喜悦と安眠が保証されているような安定した精神状態を求めるでしょうね。

仮にバーゲンなどで年間十万円以上節約できてもイライラ、焦り、不安などのマイナス感情に付きまとわれていては結局高くついたのと同じこと、金が儲かったというだけで本心から納得、満足できる人なんていないと思いますよ」

 私「そりゃー、そうですね、お金があっても幸せとは限りませんからね、太郎さんは今は幸せなんですね」

太郎さん「幸せ?人が一瞬でも幸せという言葉を口に出したり、頭の中に思い描くのは、それまでの不幸な状況から逃れられてホッとしているときか、自分より不幸に見える人に出会ったときくらいでしょう、日頃の嫌なことを一瞬でも忘れられたときなどはスカッとしたとか言いますね、どちらもいい加減なもので、幸せという言葉はあっても実態としてはないものかもしれませんね。

私は幸せとか特に意識しませんね、幸せと言っても感じ方の問題、感受性の話でしょう、よく笑う人はよく泣く、人生楽しいと言葉に出す人は、それだけ苦労の絶えない人、別に幸せを感じない人は別に不幸も感じていませんよ、不幸というのは言葉の一つですが、要するに悲しみの感情を抱えているということでしょう、感情は体や脳の状態によって決定され、体や脳の状態は外部との関係で決まりますからどうしようもないですよ、将来が不安だと言ったところで、それは今の体や脳の状態の話ですから、その状態は外部との関係でどう変わるか分かりませんよ。

今不幸だと思っていることも、そうじゃあなかったと思うこともありますよ。

幸不幸を感じるのは持って生まれた体質で脳の部位とかの問題でどうしようもないので気に留める必要もないと思いますよ。

まあ、幸せが不安や苦悩からの解放だとしたら、明日死のうが生きていようがどちらでもいいと思えたときが本当の幸せでしょうね。

あと、強いて言えば特段の苦痛がなければ幸せということでしょうかね」

私「そういうことも言えるかもしりませんね、でもみんな何か物を得ることが幸せだと思っている節がありますね」

太郎さん「欲望そのものは、どう変化してもなお在り続けたいという無意識的な衝動で、人間の現実的本質という意味で否定はできませんが、ただその現実的本質としての欲望を企業や資本から与えられた世間的な物欲とかと安易に混同したり、置き換えたりすると話がややこしくなると思いますね。
   そうなると、その欲望は満たされるものじゃあなくなる、こうなりたい、こうしたい、でもできない、その間で苦しんでいるのが人間の姿ということになるでしょう、これを不幸な状態と言うなら、不幸は必ずあるし、必ず来る。
   不安感などの感情の原因を物の欠如だと勘違いして、全ての目的を物欲とかに置き換えてしまう、それが一番分かり易いと思うからそうするだけですが、それで満足できるならいいが、それは無理でしょう、残念ながら人間の脳は、何かを得たからもう十分、これ以上は何も求めませんというようにはなっていませんから」

私「何かを得たらまた何かを得ようとする、ですね」

 太郎さん「その繰り返しの中で死んで逝く、死期を悟ったときに社会のため財を投げ出す人もいますが、それができない人は金は失わないが墓場には持って行けず、彷徨いながら死んで逝くというだけですよ」

私「物への欲というのは人間の性なんでしょうね」

太郎さん「ただ、そんなにモノが欲しいのか、と聞かれると、大抵の人はそれほどでもないと答えるでしょうね、ただ回りがみんなそうしているように見えるから自分もそうしないと不安になるからということでしょうね、この点は地位や名誉への欲も同じだと思いますが、誰かが勝手に作った変な価値観への追従ですかね」

私「あと、自分を理解して欲しいとかも」

太郎さん「「物と地位名誉と自分を理解する人ですか」

私「何だか幸福の三種の神器みたいですね」

太郎さん「幸福の三種の神器も裏を返せばやっかいなものになるでしょう、物も名誉も当てにならないし、自分を分かってもらえる人もそういるもんじゃあないでしょう、一時的にそう思うことはできても、実際はそういるもんじゃあないでしょう、それに他人のことを考えすぎたり、期待しすぎたりすると痛い目に会うのが落ちでしょう、それぞれみんな違いますし、まあ違うから影響し合い作用し合い変化し、自然の活動の一環として存在しているわけで、この次元、本質の次元では全ての個物は共存一致関係ですが、本質に外部のものが帰属している状態である身体の面で言うとまた違ってくる、カラスはカラスの世界に、メダカはメダカの世界にミミズはミミズの世界に生きていますが、カラスにもいろんなカラスがいるように同じ人間と言ってもそれぞれ違うでしょう、体の作りもみんな違うし」

私「体の作りねぇー、そうかもしれませんね、でも病院には行った方がいいですよ」

太郎さん「たとえ病院に行って体が治って長生きしたとしても、それが別に良いこととは思いませんね、この社会にいる限り、一瞬の喜びのためにその倍以上の苦しみや悲しみを経験せざるを得ないし、それにはぼちぼち飽きてきたし、それに死を怖がることにも慣れ過ぎて飽きてきましたよ、ここらで違う変化に遭遇してもいいと思うようになりましたよ、どのみち経験することですからね」

私「何だか暗い話ばかりになってきましたね」

太郎さん「別に暗いとは思いませんよ、当たり前のことですから」

私「当たり前と言えば当たり前ですね」

太郎さん「考えてみれば、私個人は当たり前のように生に執着してきましたし、今も生きています、もっともそれは私の意志とかじゃあなく、自我を超えた大きな力の現れの一つだとだと思いますが・・・。

一方で私と関わりを持つ外部のものは私の生というより、己の生のために私と共存し、そして滅ぼそうとするでしょう、これも当たり前のように、そうして自然全体は生き続けているわけですから、当たり前に」

私「自然が生きて、私が死ぬのですか、私の意に反したとしても」

太郎さん「人間個人から見ると意味のないことでも、自然の視点からすれば有意義なことは結構ありますよ、個人の意に反して人が死ぬのは個人の存在に固執する力と自然全体の存在する力との力学的関係の中で生きて死んで逝くということでしょう、つまりある個物が死滅しなければ、人体全体と個々の細胞の活動関係のように、全体である自然は新陳代謝の機会を失くし死滅してしまうので、自然の一部である人間は自然自身の存在活動の一つとして死滅するということだと思いますよ」

私「自然の中の人間の宿命ですか」

太郎さん「全体としての自然がそうなっている以上、ごく当たり前のことでしょうね」

私「当たり前ねぇー・・・嫌なことに出会ったり、考えたりすることも当たり前でしょうね」

太郎さん「そう、当たり前の方から見れば当たり前」

私「その当たり前のことに、耐えられなくなるときもあるのですよ、死ぬのが怖いとか嫌だとかだけじゃなくて耐えられないときがあるのです」

太郎さん「耐えられないときね、まあ、分かりますよ、そういうときもあるでしょうね」

私「そういうときの私って、沈んだ気持ちでいると、昔の辛かったことや嫌なことを思い出してしまうので、炊事や洗濯お掃除なんかして気をまぎらわせていますね、そんなことでもしないと耐えられなくなりますからね」

太郎さん「みんなそうですよ、嫌なことやその思いから逃れるためにみんな必死に何かをしていますよ、昔の私は仕事さえその類でしたから、ちょうど歯が痛いときでも仕事に熱中しているその瞬間だけは痛さを忘れるみたいにね」

私「今の太郎さんはどんなことをして気をまぎらわせているのですか、ああ今はそんなに嫌な気分にはならないのかな」

太郎さん「意識して気分転換を図るということはないですね、気分は毎日勝手に変わっていますから、でも嫌というか悲しい気分になることはありますよ」

私「太郎さんもですか」

太郎さん「それは仕方ないことですよ、だって遺伝子か何かの関係でそうなると思っていますから」

私「遺伝子?」

太郎さん「人間特に現代人は誰であろうと、どこにいようと悲しみや苦悩を分母として生きていますよ、嫌な気分とか、悲しい気分とかは苦悩の一種ですけど、それが人間を行動に駆り立てるわけで、満足感や安心感だけなら何の活動もできず、生存がおぼつきませんよ、だから個体としての生存を維持するため、脳とか遺伝子の働きによって苦は生まれると思いますね、この仕組みは太古の昔から変わっていないと思いますよ」

私「確かに、安心仕切ってしまったり、満足しきちゃうと人間は動きませんね、太古の昔なら他の動物に食べられちゃいますね」

太郎さん「不安感や悲しみなどの苦の領域に属する感情は脳がそれなりの理由の下で独自にやっている仕事で、自然の現象の一つでしょうね」

私「だからそれにはとらわれないということですか」

太郎さん「そうですね」

私「太郎さんはそれができても他の人は中々そういうふうには・・・おっしゃられた苦の感情から逃れるために、みなさんいろんなことをしておられますよ」

太郎さん「知り合いの息子さんに芸能人や有名人のブログにイチイチ反応してコメントするのが好きな人がいまして『なぜそんなことをしているの』と聞くと『気晴らしと言うか僕の生き甲斐だ』と言いましてね。

そんなの生き甲斐になるはずがないのに。

自分の不安や不満から逃れるために、そこまで他人の中に入っていくこともないと思いますがね」

私「実際に会ったことなどない人に興味があるということですか」

太郎さん「さあ、芸能人や有名人とコンタクトを取りたくてやっているなら、それは憧れとも言われているものですが、結局は果たせぬ己の名誉欲の肩代わりにすぎないでしょう」

私「肩代わりですか」

太郎さん「本当は肩代わりにもなりませんけど」

私「誰かとのつながりを求めているのでしょうね」

太郎さん「ええ、共感を得たり、反発することで芸能人や見知らぬ人とのつながりを求めているのかもしれませんね、でも他人のことが気になったり、比較や競争意識が根底にある限り、それは逆効果になるでしょうね」

私「孤独感にさいなまれているのですかね」

太郎さん「孤独って一つの人間関係のことでしょう、自分が人間関係の中で孤独だと思えば孤独感が増し不安になるけど、他人も人間には変わりはありませんが、人間と言っても、自然の中の現象であり、自然の様態であり個物ですから、その点では他人も他の個物に刺激や影響を与えたり、他の個物から影響を被る個物の一つですから、回りのネコや風や草木と同じ次元のものだと思えば、人間関係なんて気にならなくなりますよ」

私「そんなもんですか・・・。

でもお年寄りってどんな形でも相手を欲しがるものでしょう。

知り合いの女性の話ですが、彼女のお父さんはかなりのご高齢なんですが、彼女に「俺の財産が狙われている、泥棒が家の回りをうろついている、お前に全部財産をやるから仕事を辞めて傍にいろ」とかいろんなことを言うようになり、それに毎日のように夜中に起こされ親戚の人や近所の人の悪口から始まって家を建てるまでの苦労話、自慢話をさんざん聞かされ、あげくに罵られノイローゼになっているようなんです」

太郎さん「高齢故の孤独感、不安感ですか」

私「彼女の家の向かいのおじいさんは、同じ年恰好でも、家の前に椅子を出して、ただニコニコ笑って座っているだけなのに、どうしてうちの父はと思っていたら、お父さんが、あの人は頭がおかしいと言ったのでどっちがおかしいのかと言いたくなると言っていました、お父さんの体が不自由でなければ、財産を全部使ってでも、世界旅行でも宇宙旅行でも好きなところに行って欲しいとも言っていましたよ」

太郎さん「そういう人に限ってどこにも行きませんよ、身近な人に話しを聞かせて自分の歴史なり存在なりを評価させようとしていますからね、自己顕示欲ですね、名誉欲の一つですね」

私「自己満足ですね」

太郎さん「他人を必要とする自己満足ですね、自力の満足じゃあありませんね、年を取ると、みんな俺はまだ生きていると自分じゃなく、他人に主張してしまうものですよ」

私「そういうところもあると思いますが、よくテレビなんかで、お年寄り同志が集まってサークル活動やカラオケなんかで盛り上がったりして、楽しそうな場面が紹介されていますね、それが明日への活力とか生き甲斐の源なっていると紹介されていますね、テレビですからそれなりの演出もあり、百パーセントそうだと思っているわけではありませんが」

太郎さん「年寄りには年寄りならではの不安感があると思いますけど、まあ集団化するのは人間の本能みたいなものですが、いくら年寄り同志が集まってもねー、不安感や孤独感をその瞬間背後に隠すことはできても解消にはならないでしょう、新たな刺激にはなっても、刺激は魔法の水のようなもので、飲めば飲むほど渇きを覚え、今の寂しさや苦しみを一瞬忘れさせてくれるかもしれませんが、その刺激故に倦怠感や不足、不満感などの新たな悲しみの感情が生まれるでしょうね、刺激感は生きもので増殖細胞みたいなものですから、そこで満足しちゃうことはないですね、次から次へと新たな刺激を追い求めることになるでしょうね。

まあ人生楽しまなきゃあ損、それはそのとおりですが、でも本当に楽しいことだけしている人なんていませんよ、たとえ、そのふりをしても、次の瞬間また悲しみにくれるだけでしょう。

何をしようが何を考えようが心から楽しいと思えばそれでいいいが、反動ですぐに悲しみに陥るような喜びは、その人にとって本当の喜びじゃあなく、単に悲しむための準備みたいなものでしょう、笑顔の中に悲しみが見え隠れしている、みんなそんなもんでしょう。

どう転んでも喜びの感情と悲しみの感情は交差するものだから、何をしようが結局同じことでしょう、明日の活力になるとか、生き甲斐だとかのフレーズを使うのは、そうしないとやっていられない状況にいるということで、活力だの生き甲斐だの、そんなこと考えざるを得ないのは生きているのが辛いとみんなが感じているからでしょう」

私「立場は違っても本当はみんな苦しんでいるのですね、見かけはそうは見えなくても、この前テレビで、優しい笑顔でにこやかにインタビューに答えている人がいたので、何を喋っているのかと思ったらご自分の病気のことで、それはもう悲惨な症状で気の毒でした」

太郎さん「まあ人間って人前で喋るときなど別の人間になっていますからね、まあこれも回りとの関係の中での変化の一つでしょうね」

私「本当に人は見かけによらないとはよく言ったものですね」

太郎さん「まあ、そうだと思います、私が市役所の広報課にいたころの話ですが、家族のふれあいをテーマに取材してこいと言われ、以前住んでいた家の近所に、毎週庭で焼肉パーティーみたいなことをしてワイワイやっている家があったので、取材させてくれとお願いにいったところ、そこのご主人にものすごく怒られましたよ」

私「どうしてですか」

太郎さん「ご主人に『自分の家で何をしようが勝手だ、他人にとやかく言われる筋合いはない』と言われたので『いえ違います、今度市の広報誌の特集で家族のふれあいをテーマにする予定でして、円満な家庭、笑いが絶えないようなご家族への取材をさせていただきたいと思い、ご協力のお願いに来ただけで、苦情とか迷惑とかの話では一切ありません』と釈明しましたが、そのご主人から『何が家族のふれあいだ、事情も何も知らないのに勝手なことを言うな』とまた怒られ追い出されました。

こっちは楽しそうな家族のだんらんだと思っていましたが、先方からすれば、やらざるを得ない事情があってのことで『何が楽しいのだ』という感じでしたね、そのときのご主人の顔は寂しく怒りに満ちていましたね」

私「人ってうわべだけでは分からないものですね」

太郎さん「そのときから私は他人のことは思考の対象外にしましたね、どんなに明るく

幸せそうに振る舞っている人でも必ず裏の面がある、その裏の面を見せられると余計に辛く感じますよ。

誰しも裏の面を持って生きていて、みんな苦しい役を演じているのは分かりますけど・・・人間の心理なんて本当のことは分からない、自分のことでも分からないのに他人の心理が分かるはずはないですよね」

私「私なんか自分自身で分からないようにしてしまったかも知れませんね。

話は変わりますけど、このあいだ、スーパーマーケットに行く途中、子どもを自転車の前に乗せた若い女性が信号を無視して車と衝突しそうになってびっくりしましたよ、車から男性が下りてきましたが、女性は知らん顔で角を曲がって行ってしまって、それからその後でその女性とスーパーマーケットで会ったのです、彼女は子どもにガミガミ言いながら買い物をしていましてね。

急ぎの用事があってやむを得ず信号を無視したわけでも何でもなかったのです、これなんかも苦しい役を演じているというか、日頃からのイライラや不満が溜まりに溜まっている感じですね。

別の方は店員さんを大声で怒鳴りつけていましたし。

近頃はみんながおかしくなってきているような気がしますね、誰もそれを望んではいないのに、自分人身が分からなくなり、そんなふうにしたくもない役を演じるようになってしまったのかしら」

太郎さん「自分の思い通りいかないからといって腹を立て、その原因を無理に他人や身内のせいにしたり、人を見下すようなことをしている人は多いですよ、それで満足なんかできるわけがないのに、結局そのつけが自分自身に回ってきてまた苦しむ。

人の心や自分の心情をみんなで寄ってたかって複雑で解けないパズルようにしてしまい、そして苦しんでいる」

私「それじゃあますますストレスがたまりますね」

太郎さん「今この国に住む人は総じてストレス症ですね、嬉しいと感じたときでも脳が何らかの刺激を受けている以上、ストレスは生じている、ただ一瞬だけ嬉しいという感覚の後ろに隠れているだけで直ぐに顔を出してきますよ」

私「みんな悩んで苦しんで死んでいくのかな」

太郎さん「でももういいですよ、仮面を被って苦しい役を演じたり、辛さを変にごまかしたりするのはもういいでしょう、そういうことは若い人にでも任せておきましょう」

私「年寄りはお役御免というところですか」

太郎さん「若いときは集団や組織の一員としてどうしても、その価値観や基準に縛られますし、集団、組織の概念なり観念が優先してしまいますが、最終的にはその集団から離れることになりますし、元々個体には個体固有の運動や働きがあるわけですら、この年になると集団じゃあなく個体として個の観念に生きるのが自然の推移でしょう、ありのままに気楽にね」

私「世間で言う第一線から離れるということですね」

太郎さん「世間で言うところのね、もっとも何が第一線なのか分かりませんが」

私「個人の価値観と集団や組織のそれとは相容れないところがありますから、それでみんな苦しんでいますね、私たちはそこから離れて気楽になって、気楽になった先には天国が待っているのですか」

太郎さん「死後の世界と言っても誰も経験したことがない未知の世界のことだから、本当のところは分かりませんが、もし仮に死後の世界が比較する必要も反省する必要も価値基準もない世界なら言葉も意識も要らないし、それはそれで結構なことと思いますよ、まあ日常でも言葉も意識もない世界は経験していますけどね」

私「何もないところへ帰って行くということですね」

太郎さん「全く何もないのか、あるべき姿であるべきところにいるということなのか、もしそうなら今と全然変わりませんよ、それで十分ですよ」

私「生も死も変わらないということですか」

太郎さん「生と死を隔てるものは人間の頭の中にしかないのではと思います、生きている限り死ぬ、生きている時間が長いからよい短いから悪いなどは個々の感覚感情の問題、九十まで生きたから儲けものだと言われても、何を儲けたの、何を得したの、三十で亡くなった人は何を損したの、長生きすればいろんなことが経験できると言われても、後から無理に理由を付けた感じで、三十で亡くなった人も嬉しい、悲しい、憎い、怖いなどの経験をしてきたわけだから同じこと、個体の存続維持に努めるのは自然の力の一つの現れで、それは長さや量といった相対的な物差しで計るものじゃあないでしょう。

生と死は当たり前のことで自然の変化の道理で真理、自然の真理を人間の勝手な感情で見るのは変な話ですよ」

私「せめて死ぬときは楽に逝きたいですね」

太郎さん「たとえ安楽死でも、それまでは苦しみにさいなまれる、楽に簡単に死ぬには、全てから解放された自由な気分でいることでしょう。

 それと不自由や苦しさから逃れたいと思っていながら、病気で倒れた時のために蓄えが必要というのは本末転倒でしょうね」

私「どういう意味なんですか」

太郎さん「蓄えへの執着は結構不自由なことだし、お金と時間をかけて人工呼吸器や点滴、胃ろうなどの治療を施す、ヘタに栄養を取っても消化、発散するところもない、年寄りにとってはこれは苦しいことです、楽に死ぬこととは正反対ですよ。

家族に迷惑をかけたくないと言うなら、痛み止めだけ投与してもらい、他の治療には金を使わず早く逝ってあげるべきですよ」

私「それはそうだと思いますけど、ちょっと寂しくて悲しい気もしますね、家族にも本人にとっても」

太郎さん「一概に悲しいということもないでしょう、現代人の心理は複雑で、身内を亡くした人は回りから同情され、それで悲しくなるという面もありますよ、確かに動物的本能から分身を亡くせば、悲しみにくれることはありますが、それはヒューマニズムや倫理とかのことではなく、先ずは遺伝子の範疇でしょう、それをテレビや物語の中で感動秘話に置き換えてしまうことはあっても、それが人間の心理の全てを表しているわけではないでしょう、本当の個々の人間心理を表現することなどできませんよ。

人に言われたり、他人との接触の中で悲しい自己を演ずることはあっても、それがその人の全てということではありませんよ、それに人間は悲しみ一色の中では生きられませんよ、どんな悲しみ、苦悩に対しても、諦め、慰め、忘却とかの処方箋がどんな形にしろ用意されていますから、まあ逆も言えるので喜び一色もあり得ませんけど、その点では身内を亡くした人もそうでない人も同じですよ」

私「そうは言っても大切な人が亡くなれば悲しむでしょうね」

太郎さん「でもよく考えてみると、人間は前にあるものを対象にしゃべったり考えたりしているというより、実際は何らかの刺激を受けたものの像を一つ素材にして脳の中で作り上げたイメージみたいなものを対象にしていると思うんです。

だからAさんが目の前にいなくても、我々の中にはAさんの像というものがあり、その像に個々の感情や個々の評価を結びつけてこれはAさんだと認識し、その加工した像を記憶として保存するわけですからAさんが生きているか死んでいるかは我々が加工した像とは直接関係ないということりなりますよね、

もうAさんの顔も見られないし、話しもできないといっても、ずっとAさんの顔を見ていたわけでもないし、話をしていたわけでもないし、悲しんだり、懐かしむのは相手のことを思ってというより自己保存の法則とかが関係しているんじゃあないかな」

私「自己保存の法則ですか」

太郎さん「個体が個体自身を保持しようとする力、これも自然の力の一つでしょうけど」

私「自分自身のこととしてとらえるということですか」

太郎さん「むしろAさんの死を自分に結びつけて悲しんでいると考えた方が理に叶っていると思いますね」

私「そういうものですかね・・・」

太郎さん「人間は外部からの刺激に反応し活動するようになっているけど、外部はこちらの都合に合わしてくれない、思い通りになってくれない」

私「そうですね」

太郎さん「だから私なんて、今は外部のものを追いかけるのは止めにして内部のものを楽しむようにしていますよ、これって案外面白いもんですよ」

私「内部のものって?」

太郎さん「外部からの刺激を受けて反応する自分の身体とか精神とか、その観念を」

私「自分の反応そのものを、ですか」

太郎さん「そう、私たちのいるこの世界には物と運動とそれに対応いている観念、その観念から派生した喜びと悲しみの感情しかないと思うんです、その中で、何をどう感じているのか、自然の中に我々も含めて何物かがあり、その何物か同士が、ある衝動によって動き、働きそして刺激し合い、何かを感じ取り反応する、まるで物理現象、化学反応のごとく影響し合い、反応し合い、その結果を喜びとか悲しみの感情として生き、喜びを求め、悲しみを避けているのが人間の姿でしょう。

でもいつどこで何と遭遇して、自分自身がどんな反応をするのかは分からない、そこで自分が喜ぶのか悲しむのかも分からないけど、結果として喜んだり悲しんだりしてしまう。

そして、喜びや悲しみを感じたら瞬時に原因を探し出そうとする、これって面白いでしょう」

私「原因があって喜んだり悲しんだりするのじゃあないのですか」

太郎さん「そう見えるだけで実際はそうじゃあないと思うんです」

私「それはどうしてですか」

太郎さん「対象に関わる意識は脳での作業待ちのため、一瞬遅れますから、どうしても脚色されたものが脳に浮かぶと思うんです、過去の記憶とかの関係で」

私「原因と思ったものも脚色されたものですか」

太郎さん「本当の原因なんて実のところ分からないと思います、事態は複雑に絡み合っていますので本当の原因を把握することは人間の能力を超えていると思いますね。

外部からの刺激により脳の運動なり細胞の伸縮、強弱運動なり、要するに生の条件の一つである身体の反復運動が生じたとき、その状態を何らかの形で意識したとき、それと記憶の中にあるいろんな像が結びついて悲しみとかが生じたかもしれません」

私「原因の前にまた別の原因があるということですか、初めに何かありきですか、でもそれって何なのか分かりませんね」

太郎さん「ええ、分かりませんね、無意識な衝動だと思いますが、繰り返し行われる生理的現象の一つだとしても、分かっているのは喜んでいる、悲しんでいるという結果だけです」

私「原因が分かりませんからね」

太郎さん「面白いことに原因など分からなくても、自分の意志とは無関係に結果としてこの私は何かに反応している、その結果自体も日々の身体の反復運動のように喜び、悲しみを繰り返す、これは誰がどこにいようと同じこと、億万長者になって豪邸に住もうが、貧乏長屋で一人で居ようが、結果としての喜びと悲しみの繰り返しの中にいるだけ、だから対象は何でも同じこと、対象の問題ではないと思いますね、原因や対象は後からの付け足し。

無意識にしろ、悲しいと感じた瞬間に外部のある対象をその悲しみの感情の原因にしてしまうのが人間精神のパターンですし、また現代はその素材に事欠きませんからね、原因にできそうなものがいくらでも転がっていますから。

まあ一瞬嫌な気分になったとき、それと記憶の中にある像とを結びつけないことですね、像と結びついちゃうとその嫌な気分は本物になっちゃいまいから。

悲しみの原因はこれだと思っても、それは人間の想像力でしょう。

何かを感じ、喜ぶのも悲しむのも脳の働きですが、究極的には自然の現象、自分の反応も永遠無限の自然の現象の一つだと考えると、全てから解放されて「ムフフ」と笑っちゃいますよ。

今何かを感じ何かに反応している、原因もその前後のことも何もないし、何も分からない、それでも・・・。

生きているって結局はこういうことなんだと思とう何だか謎が解けたようで嬉しく感じますよ。

自分の身体を喜ばす固有の喜びって案外こんなところにあるのかと思いますよ。

この年になればこんな喜びも自然に沸いてきますよ、もっとも回りからみれば理由も何もないのにただ喜んでいる変な奴と思われるかもしれませんがね、さして理由もないのにこの世は地獄だと思い込んでいる人もいれば、それと反対の人間がいても別に不思議じゃあないですけどね」

私「その体の反応のことを四六時中考えているのですか」

太郎さん「そんなことはできませんが、折に触れてといったところですね、でもそうすると面白いことに外部のことが内部のこととして消化され、外のことには興味がなくなりますよ」

私「へぇーそうなるのですか、四六時中じゃあないとするとそれ以外は何を考えていらっしゃるのですか」

太郎さん「まあそれ以外は何もないから何も考えないで何もしないですね、あと強いて言えば呼吸するぐらい、大きくゆっくりと、呼吸していると自然のいぶき、自然のリズムを感じますよ」

私「それ以外は無の境地ですか」

太郎さん「勝手に何かは浮かんできますよ、でもそんなこと脳の仕事の一つで、私の知ったことじゃあないと思っていますよ、勝手に浮かんで勝手に消えて行きますよ、気に留めませんね、私はただ自分のいるべきところにいるだけですね。

一人で雨の音にふれているときでも、面白い気分になりますよ、独特と言うか、雨と自分の境目がなくなり、雨音に自然のリズムを感じますよ、そのリズムの中で生きて死んで行く、トントントン、とんとんとんという感じのリズムの中にね」

私「太郎さんは現在終活中とおっしゃっていましたけど・・・ご家族や知り合いの人に財産とか何かを残してやりたいとかは思わないわけですね」

太郎さん「思いませんね」

私「お墓とかも?」

太郎さん「墓も葬式も回りで生きている人の趣味の問題でしょう」

私「主人は娘に迷惑を掛けたくないので、お墓の管理とお参りを代行業者に頼もうと言い出しましてね」

太郎さん「またどうして?」

私「私たちが安らかに眠る大切なお墓をきれいにしておきたいということらしいです、それに成仏したいとか、先祖への供養にもつながるとか言っていましたけど」

太郎さん「はあー、亡くなったらお墓の中で眠るのですか、おとぎ話みたいで面白いとは思いますが、財産は墓場まで持っていけないけど、寝床は持っていくということですかね」

私「墓って祭祀財産ですね」

太郎さん「お墓をきれいにすることと、仏に成ることは関係ないでしょう、業者にお金を払ってお参りしてもらえれば供養になるのですかね、何か変な話ですね、成仏とか供養とかの言葉にのっかかったビジネスの話でしょう、まあ薄々は言った本人も含めみんな変だと感じているんじゃあないですか。

 墓は生存している人のためのものでしょう、人間の形は一刻一刻変化するものだから、亡くなった人は、形は変わっても粒子なり気体なり波のようになったりして宇宙のどこかに存在していると考えた方が分かり易いと思いますがね」

 私「形は変わっても在り続けるということですか」

太郎さん「どう変わろうが、何かの力として永遠に動き働く、このことは自然が存在する限り死のうが生きようが同じことだと思いますよ」

私「それも終活の一つの考えですか」

太郎さん「まあ個々の思いもやがて自然の思いの中に吸収されていくでしょうが、世間で言う終活って、この世の未練についての活動でしょう、自然の摂理など横に置いて、この世の物欲や名誉欲をいつまでも続けようとしているだけで、疲労の延長ですね、もっともっと欲を持って生きたいと表明しているようなもの、死ぬ前に昔の知人と会ってどうするの、良い奴だったと思って欲しいの、遺影、墓、棺のことまで心配する人は、いい家に住みたいとかもっといい車に乗りたいとかもっと格好をつけたいとか、この世の世俗価値をどこまだも引きずっていこうとしているだけ、残念ながらこの世の俗っぽい価値意識はあの世でも通用すねなんて考えられませんよ、もっともあの世があるかどうか分かりませんけどね。

家族のために財を残すといっても、自分の物欲を家族に置き換えているだけ。

家族に財を残してそれで全てハッピーなんてあり得ないし、残された財故に家族は嫌な思いもするし、苦労も絶えないということにもなる。

それでも残してもらいたいと思う人はその財を今持っていないからそう思うだけで、ないものねだりの勘違いで、人間の錯覚の一種ですよ」

私「知り合いの方なんか、今まで苦労してきのだから、将来は財産を相続して別荘なんか持って思い切り贅沢をしてみたいとおっしゃっていましたよ」

太郎さん「贅沢ねえ、例えば豪華なヨットを浮かべ、別荘でシャンパン片手に、ですか。

何か、はかなさと虚しさの極致という感じですね。

まあ誰かに羨ましく思ってもらうと別の感情も働くかもしれませんが、そういう人が回りにいないとなると辛い話ですね。

贅沢も結構だが、人間贅沢を続けると虚しさを感じるので、贅沢をする場合自由な時間を持たない方がいいですよ、虚しさを感じる暇がないくらい走り回っていればごまかしは可能、もっともその場合、贅沢をしているという実感には欠けるでしょうけどね、それに虚しさを忙しさの後ろに隠しただけなので、虚しさはすぐ顔を出すでしょう、そうなると今までの苦労とそう変わらなくなりますね」

私「終活って人生の総括じゃあないのですか」

太郎さん「終活がその人の人生の総括なら、この歳になればいろんなことを経験し、物事の進み方も分かっているはず、かつては喜んだことが本当に良いことだったのか、価値あるものと思っていたものに如何ほどの価値を見出したのか、こうだと思うとああなり、ああだと思うとこうなる、喜びの裏には悲しみがあり、悲しみの裏には喜びがある、決まった分だけ喜んで、決まった分だけ悲しむ、いろんなことが分かっているはず、私たちの属しているこの自然がどう動いているのか、言葉じゃあなくても体で分かっているはず、分かっているということを知っただけでも楽しくなりますよ、生に未練があろうが死を忌み嫌おうが、怯えようが関係なしに、人間の意志や力を超えた自然の働きの一つとして生まれ死んで逝く、後は火葬され最後は見えなくなっても何かが残りますよ、その個体固有の本質的なものはなくなりませんよ、そこに帰属していた外部のもの、たとえば身体とかはなくなりますが、固有の本質そのものは永遠に在り続けると思いますよ、永遠無限に活動する自然の力の分有として、元来そうであった何らかの運動するものとして、あるいは宇宙、自然のエネルギーとしてでも。

この自然の力の一つである固有の本質こそが永遠なるもので、自分が動き作用し変化する根幹の部分だととらえ、精神の対象をこの観念とし、これに喜びを見出す。

自分の元や素は永遠だと思えば楽しくなりますし、これに勝る喜びはないですよ。

これを理解して受け入れる、これが人間としての私の終活です、総括ですね」

私「私も人生に悔いはないとか、幸せだったとか言うのかしら」

太郎さん「そりゃー言うでしょう、型通りにね、社交辞令の一種ですから、本音では何も言うことはないにしても、本人や他人のために格好つけないとね」

 

それから二三日、公園には太郎さんの姿はありませんでした。

何げなく太郎さんが住んでいると思われるマンションの辺りを歩いていたとき、マンションの集会室のようなところで喪中の張り紙を目にしました。

私は『まさか』と思いながら中を覗いていたら後ろから男性に声をかけられました。

その男性はマンションの管理人さんでした。

管理人さんに「山室さんのお知り合いですか」と尋ねられ私は「山室・・・山室太郎さんのことですか・・・」と口ごもってしまいました。

管理人さんの話によると、二、三日顔を見ないのでおかしいと思い合鍵で部屋に入ると太郎さんは寝ていたので、そのまま部屋を出たらしいですが、翌日になっても姿を現さないので何か変だと思い、また部屋に入って、近づいてみたら亡くなっていたということです。

管理人「やっぱりどこか悪かったのですかね、でもそんな素振りも見せないし、病院に行ったなんてことも聞いたこともなかったのでびっくりしています。

病院通いしていなかったから一気に来ちゃったのかな、まあその分、余計な苦しみから逃れて楽に亡くなったかもしれませんが、幸せな死ですよ、楽に眠ることが一番の幸せですからね、人間は」

太郎さんの顔は穏やかで微笑んでいるようで、死んでいるようには見えなかったとのことです。

世間で言うところの孤独死ですが、死後を看取った管理人さんからは微塵も悲しさは感じられませんでした、それは赤の他人の死だからか、そうではないような気がします。

きっと太郎さんの穏やかな微笑みが管理人さんをして、そうさせたのだと思いました。

死のそのときは誰にも看取られずに逝ってしまった太郎さんですが、彼にとっては誰に看取られようが、何人の人に看取られようが、そんなことはどうでもいいことでしょう。

管理人「突然のことだったのですよ、驚いています、いい人でしたね、紳士的で優しい感じの方で、でもご身内がいらっしゃらないようなので、誰かご存じないですか」

私「いえ、そこの公園で世間話をする程度だったので・・・」

管理人さんは「ああそうか、以前公園で山室のさんとお話されていた方ですよね、いやーそうでしたか、山室さんに聞いたら美しいガールフレンドを見つけたと喜んでいましたよ」

私「そうですか・・・」

管理人「心配いりませんよ、私が責任を持ってお見送りしますから、成仏されることを願いましょう、通夜は今日の六時からで、告別式は明日の正午からです」

私は「ありがとうございました」とその場を離れた。

太郎さんはあっけなく逝ってしまった。

私は彼の死に目に会えなかったけど彼は『生きていることと死んでいることの境目なんてないよ』と言うでしょう。

悠然と現われ悠然と去って行った彼、彼と過ごした時間が長いのか短いのか、そんなことは問題ではない、彼の傍にいる間だけは私自身でいることができたから。

全てを失くしても、何もなくても人間はいるべきところにいると教えてくれた彼。

複雑で難しいパズルのような人間心理、そして不可解な欲望と価値観、虚飾を剥ぎ取りそれを喜びの感情の元に還元した彼。

理解し認識する精神を喜びの対象とした彼。

そんな彼は他人にも自分にも「人生に悔いはない」とは言わなかったでしょう。

彼の人生は悔いるものでも誇るものでもなく、彼の終活とは新たな生への目覚めだったかもしれません。

私はお葬式には参列しませんでしたが、遠巻きにその様子を見ました。

お葬式といっても管理人さんとほんの数人の人しかいませんでした、恐らく遺骨は市の無縁仏の合同墓に葬られるのでしょう。

太郎さんにとってはどうでもいいことでしょうが。 

 

彼が亡くなって一週間が経ったある夜、その日は雨でした、窓越に聞こえる雨の音がいつしか、トントントン、とんとんとんという心地よいリズムのように聞こえてきました。

私はこの雨の一滴の雫の中に太郎さんがいても不思議ではないような気がしました。

それが彼が言っていたような彼の変化ならそれはそれでいいと思いました。

次の日、あのマンション管理人さんが私を訪ねて来られました。

管理人「いやー、探しましたよ、突然来て申し訳ありません」

私「はあ?」

管理人「山室さんにはご身内がいらっしゃらないようなんです、それでというわけではありませんが、多少のご縁ということで、これを受け取って頂くわけにはいきませんか」

手渡されたものは太郎さんの遺骨、分骨でした。

私は何も考えることなく「承知しました、わざわざご苦労様でした」と言って遺骨を受け取りました。

遺骨を受け取ってどうするのかとか主人にどう言おうとか全く考えませんでしたし、かと言って遺骨を後生大事にしようとも思いませんでした。

この骨は確かに太郎さんの変化ですが、やがてこの骨も形が変わり見えなくなるでしょう、でもどんなに形が変わっても太郎さん自身は、この世界、この宇宙、この自然のどこかにいるでしょう、そこが孤高の人のいるべきところだからです。
   もう言葉を交わすことがないとしても、無意識のままであっても、彼はこの世界から離れないでしょう、あるべき姿であるべきところにいるでしょう、そこが彼にとっての天国だから。
  虚飾も演技もない世界、変化の只中に身を置き、反応する身体に戯れて喜ぶだけの世界から彼は離れないでしょう。
  私もいつかそこに行くのか、行けるのか、それとももう行っているのか。
  そんなことを思いながら、私は心地よい眠りにつきました。
  朝になったら目覚めるのか、それとも・・・どちらでもいいことです。


 私の中の永遠なものを見ている限りは・・・・。                                                                  

加齢なるベストイレブン

遭遇録

 

大学時代は結構面白かった。

仲間とくだらない話をして過ごしていただけだが、あるとき一人の奴が、俺の人生は食べて寝て、後トイレだけと言えば、もう一人の奴が、それだけじゃあない、その前に俺たち人間は生物で動物だ、生きてそして動いている、生きて動いて、食べて寝て排泄する、それだけやれば十分だし、おまけにそれに対応する観念や思いもある、十分過ぎると言った。

 また別の奴は物質と非物質の境はない、形があるように見えるのは単に人間の都合でそう見えているだけと言えば、映画かぶれの奴は、世界は映画と同じで決められた台本とシーンがあるだけ、決定された一コマずつが、つながって見えているだけと言う。

一見まともに見えることを言う奴もいた、彼は人間の究極目標は金や名誉とかではなく幸せになることだと言った。

なるほど金や名誉があっても幸せじゃあない人もいるだろう、ここまではごく常識的な考えだと思ったが、彼の幸せについての考えは変わっていた。

彼の考えはこうだ。

幸せは人間の究極目標であるけれど、それは究極の願望であり欲望ということで、それは叶えられない、叶えられるような欲望はまた新たな欲望すなわち欠乏状態を産むだけで究極の欲望とは言えない、一生かかっても手に入らないものこそ究極のものであり、自分は神になりたいと叫んでもそうはなれないようなものだ、究極の願望である幸せは言葉であり、概念であり、憧れの存在であるけれど実在するものではない。

それに対して別の奴が、ドキュメンタリータッチのテレビや映画に出でくる幸せな人や家族はどうなるのかと聞けば、彼はテレビや映画が真実であるのは、そこから刺激を受けて何らかの感情が生じるということが真実というだけ、刺激を受ければ子どもは子どもなりに、年寄りは年寄りなりに、病人は病人なりに反応する、その反応を精神から見れば感情や思いということで、身体から見れば動作や表情というだけ、何から刺激を受けてもそのメカニズムは同じこと、新聞でも紙芝居でも遊園地のお化け屋敷でも、あるいは夢であっても同じ、人間はそこから刺激を受け感情に動かされる、これは真実だか、テレビや映画においてそのストーリーや幸せな人そのものが、真にそこに実在するということではない、製作者サイドからすればテレビや映画を見た人に刺激を与え、そこから幸せというものを感じさせることがポイントで、あくまで幸せが究極目標であり、憧れの存在であるからノンフィクション仕立てのストーリーを描いただけだと切り返した。

それに対して別の奴が、ドキュメンタリータッチのテレビや映画に出でくる幸せな人や家族はどうなるのかと聞けば、彼はテレビや映画が真実であるのは、そこから刺激を受けて何らかの感情が生じるということが真実というだけ、刺激を受ければ子どもは子どもなりに、年寄りは年寄りなりに、病人は病人なりに反応する、その反応を精神から見れば感情や思いということで、身体から見れば動作や表情というだけ、何から刺激を受けてもそのメカニズムは同じこと、新聞でも紙芝居でも遊園地のお化け屋敷でも、あるいは夢であっても同じ、人間はそこから刺激を受け感情に動かされる、これは真実だか、テレビや映画においてそのストーリーや幸せな人そのものが、真にそこに実在するということではない、製作者サイドからすればテレビや映画を見た人に刺激を与え、そこから幸せというものを感じさせることがポイントで、あくまで幸せが究極目標であり、憧れの存在であるからノンフィクション仕立てのストーリーを描いただけだと切り返した。

すると戦国武将に憧れている奴が、秀吉が戦国時代に終止符を打って、天下統一を成し遂げたのは、その時代に生きた武将たちの考えや判断、価値意識などが大きく関わっているのに、それを単なる個々人の受け取り方や感情の問題にすり替えるのは、歴史や歴史上の人物を否定することに通じると別の角度から文句を言い出した。

言われた方は、歴史を否定しているわけではない、天下統一は事実かもしれないが、個々の武将の人物像などは、誰かがそれぞれの立場において後から記したもので、それは戦国武将個々人の実像ではない、これは戦国武将に限ったことではないが、誰かが何某かの感情をもって描いた像があたかも実像のこどくなってしまったということで、その人物に興味を持つのも評価するのも、そう感じる主体の個人的感覚の問題に過ぎないと言うと「実際に会って、それなりの話をしなければ人物像なんて単に他人の想像力に過ぎない」という奴も出できた。

別の奴は、「実際に会ったとしても想像力には変わりないよ、それに武将がタイムカプセルでやってきて俺たちの前で『予は満足じゃ、後悔なんぞしておらん、みな民百姓のためにやったこと』と言っても本心かどうか分からないと言うことだよ、だって人間は人前だと別人になるし、人の本心なんて分からないよ、その人を格好いいと思うのはこっちの勝手ということだよ」と言ったら、横の奴がまた言った。

「俺は小学校のとき、喧嘩して初めて人を拳で殴った、相手は全然悪くないのに殴ってしまい、俺は自分を責め、後悔し続けていた、卒業後もずっとそいつに謝りたかったが機会がなかった、その後そいつとはバラバラになってしまったが、十年経ってやっと居場所を見つけて謝ったけど、そいつは全然覚えていなかった。いくらこっちが忘れられない思い出だと思っても相手や回りは覚えていないし、覚えていても全く違うように受け取っていたなんてよくあることと思うよ」

確かに共有すべき思い出など言葉の上だけで、実際はないかも知れない。これも人それぞれの感じ方だろう。

話に切りも落ちもなくなり、俺はもうそろそろと思い「最終的には何かにふれて何かを感じる、それ以外は何もないということか」と言うと、みんなもうどうでもいいと思ったのか、黙ってしまって他の話題になった。

いつか大学の先輩がきた時、先輩は嫁さんに失望したと愚痴ばかり言っていた。

その先輩は夢を持って生きるという言葉が好きだった。

そして良き理解者に巡り合うことが大事とよく言っていた。

先輩の奥さんは結婚するまでは先輩の話に共鳴し、先輩の数少ない理解者だったらしい、ところが結婚するとマイペースの先輩より奥さんの方が仕事が忙しくなり、あなたの夢物語についていく程暇ではないと言われ、ショックを受けたらしい。

先輩の愚痴をしこたま聞いたあと、みんなでその話をした。

ある者は、良き理解者を得ようとしたときから間違いが始まったと言い、ある者は夢を持つという意味が分かっていなかったと言い、またある者は先輩のマイペースと奥さんのそれとのペースがずれていたとか言ったが、段々その話に飽きてきたとき別の奴が「結婚して同居したから二人の距離が近づき過ぎて他人のことと自分のこととの見分けがつかなくなり奥さんは、自分はそんなこと考えている場合じゃあないと思ってしまったんだよ、錯覚の一種だね」と言った。

最後は二人を取り巻く状況が変わっていることに先輩は気づかなかった、奥さんが変わったというより状況が変わったのだ、人間は状況に支配されているから、どうしても恨みたかったら状況を恨むしかないということにして皆が一応納得した。

みんな自由過ぎたのか、地に足がついていなかったのか、だったらそれはくだらないことなのか。

世間知らずで責任がないからいろんなことが言えたのか、でも責任感のことは分からないが、奴らは今でも世間ってなものは知らないと思う。

 世間てなものは適当に合わせておけばいいとは思うが、それで本心から納得するかどうかは別問題だ。

 確かにくだらない世界だったが、くだらなくない世界ってどんな世界だろう。

俺はバカバカしくても面白い世界からまじめそうでちっとも面白くない世界にこれから行くのだろうか。

 

俺は二浪までして入った一流といわれる大学を卒業して、親の勧めで大手メーカーに就職したが、一年足らずで辞めた。

わざとらしい人間関係の中で生きていくのがサラリーマンの宿命かもしれないが居心地は悪かった。

当然のようにその人間関係の中で埋没していく者もいた。

職場の中でもいじめはあった、少なくともいじめられていると思っている者はいた。

残業で遅くなった日、職場には俺と清水という男と田所という女性しか残っていなかった。

やっと仕事が終わった時、清水は「やっと終わったな」と言いタバコに火を付けた、それに対して田所は「ここは禁煙です、やめてください」と抗議したが、その顔には涙が溢れていた。

その場ですぐ火を消した清水は会社を出たとき「なんだあいつ、あんなことで泣きあがって、この時間ならタバコの一本や二本どうってことないのに、神経質すぎる、正常じゃあないよなあ」と独り言のように言った。

俺は以前、喫煙ルームの造花をきれいにしていた田所を見たことがある。

田所は職場での規則違反を怒っているのではない、タバコが嫌いなわけでもないだろう、ただ自分の前だからタバコに火を付けた、他の人間の前ならしないはずだと思い、自分がバカにされ、見くびられていることが悲しかったのだ、あるいはそう思ってしまう自分自身に耐えられなかったのだ。

俺は清水に応えることも、田所を慰めることもしなかった。

田所はその後、長期の療養休暇を取ったが、そのことが職場で話題になることはなかった。

みんな何かを感じていたはずだか何もしなかった、俺も何もしなかった。

 

俺に会社を辞めた理由をはっはり言えと言われても困る、ただ俺の居場所ではない気がしたのは確かだ。

かといって、何をしたいという目標があるわけでもない。

何となくこのままでいいのか、この先どうなるのか、働く意味って何んだろうと考える日々の中にいた。

回りからするとただボーと生きているだけにしか見えない俺だが、実は答えの出ない問題について、いろんなことを考えて生きていて、脳は俺の期待以上に動いている、不必要に動き過ぎているかもしれない。

あるとき同僚が「人間、目標に向かって進まなければならない」と言うので、「君の目標って何?」と聞くと「郊外に家を建て家族と幸せに暮らすことだ」と返ってきた。

俺は、かなりの想像力を働かせて、その意味を理解しようとしたができなかった。

幸せと郊外の家と家族の関係が分からない。

家族と共通の価値観を持つという神業に近いことをしようとしているのか。

交通ルールじゃああるまいし、それは無理なことだろう。

今、都心のマンションに一人で住んでいることが嫌なのか、それが幸せと結び付かないと言っているのか、その辺が分からない。

別の同僚は「人生楽しまなきゃあ」と言っては、休日はテニス、スポーツジム、夜は合コンと体に鞭打って頑張っているがどこから見ても楽しんでいるようには見えない、楽しみに向かっているよりむしろ、何かから逃れようと必死になっているように見えてしまう。

同僚が飲み会を企画したときがあった。

俺は誘われるままに参加することにした。

元課長補佐で今は嘱託だか、かつては『伝説の処理魔』と呼ばれていた男性も参加するらしい。

いろいろとためになることが聞けるかもしれないということで呼んだと聞いた。

その人は定年間際まで半端でない仕事量をこなしたらしい、なぜそこまでしたのかと聞くと彼は「仕事をしている最中は面倒で嫌だなと思って、今日はこれで止めておこと思うけど、一仕事終えるともう少しできるんじゃあないかと思っちゃって、自分自身と他人の再評価に期待してね、これもやろうと思っちゃって、つい人のエリアまで踏み込んでね、決してノルマなんかじゃあなくて、結果としてやっちゃったということかな、人間は不思議なもので嫌なことでもやり終えるともうちょっとやれるかと思ってしまうね、一段落つくと次の欲が出てくるんだね、俺はできる男だ、やってやろう、そうすれば皆が喜んで、褒め称えてくれて、一目置かれる存在になれるという欲がね、不思議だね」と言った。

俺は人間が不思議なのか、あんたが不思議なのか聞きたかったが黙って聞いていた。

彼はいったん会社を離れたが、また嘱託として舞い戻ってきた、彼流の欲望を満たしてくれる場所が会社以外にないと感じたからだろう。

もっとやれる、もう少しやってみようという会社で身に付いた健気な習性を断ち切れず、会社を辞めてもその気持ちが彼を支配し続けていたが、それを満たしてくれる場所を見つけることができなかったのでまた帰ってきたのだろう。

頑張り抜いた話はいい話のようで、寂しい話でもある。

OBに比べて現役の役付きの話は寂しさを通り越して寒い、さすがという感じだ。

吉井という部長は誰彼なしにちゃん付けで呼んでいた。

中野さんならナカちゃん、吉田君ならヨシちゃん、田所ならタドちゃん、酒井ならサカちゃん、言いにくかろうが、なんであろうが最初の二文字にちゃん付けして呼んでいた。

ご本人は親しみが感じられ面白みのある職場環境を目指していたかもしれないが、効果はゼロだった。

その部長にはみんなを和ませようとお笑い番組を見て勉強しているという噂もあった。

課内ミーティングのとき、部長直々おいでになり、マエダアツシという名の係長の提案書を見て「これはいい、このマエアツちゃんの提案を土台に考えたらどう」とご自分の意見を述べられた。

マエダというのが二人いたから無理を承知でそう言ったのか。

俺は舌を噛まなければいいがと心配した。

横にいた同僚が「あの前田敦子をもじったつもりかな、それなら前田のあっちゃんでもいいのに」と小声で言った。

もし噂どおり皆をなごませるためにお笑いの勉強をしているなら直ちにやめた方がいいと思う。

自分に欠けているのは気安さや面白みだと誰かに言われて気づいたとしても、それは個人の問題として処理していただきたい。

その思考回路及び性格とお笑いのセンスにはギャップがあり過ぎる。

部長の必死の努力にも関わらず職場は和まず、親しみもなかった。

部長はその後、自分で気づいたのか、誰かから注意されたのか、ちゃん付は止めたようだ。

部長の努力はともかくとして、俺にとっては面白さも感じられない職場だった。

 

俺の父親は口うるさいというタイプではないが、厳格な常識人といったところで、地元の有力者の一人らしい。

役所とも関連のある会社の経営者だったが、今は表向き親戚の人に経営を任せて影の執権という立場にいるようだ。

詳しくは知らないが、何かやばいことがあったのかもしれない。

母親は口数少なく、父に逆らったことなど一度もない人で、家ではいつも父の傍にいてかしづいていた、俺には母にかばってもらったり、可愛がられたり、抱きしめられたりした記憶はない。

母はつい最近まで心療内科に通っていたが、父に説得され止めたようだ。

母は自分のことや身内のことなど語らない人だが、父の話によると、母の妹は大きな酒屋に後妻として嫁いだが、その亭主が酒乱で暴力も振るい、あげくに店は謝金の形に取られ、亭主は半身不随の病気となった。

健気に看病する母の妹に対して、亭主の両親も先妻の子も彼女に辛く当たるだけだったらしい。

それでも彼女は親にも姉にも頼らず、相談することもなく、水商売をして家計を助けたらしい、彼女は野良猫を見つけてはそれを家で飼い、謝金まみれの家は、近所でも評判の猫屋敷となったが、飼い主は突然この世から去った。

家族や世間が彼女に同情することはなかった。

俺が「自殺か」と聞くと父は「分からない」と答えた。

彼女は猫を慈しむ目で亭主を見ていたのだろうか。

しかし彼女はある時期、みじめな脇役から主役に転じたはずだ。

家計を支える彼女は、ある時期だけ主役となり彼女自身の世界に生きることができたが、個の世界は世間との板挟みの中で消えていったのだろう。

誰でも自分の世界を持っていてそれを守りたいものだが・・・。

最後に父は彼女のことを病気だと言ったが、じゃあ病気でない人はどこにいるのか。

妹が亡くなったときの母の心情も聞きたかったが・・・聞けなかった。

じいちゃんもいたが去年亡くなった。

じいちゃんの葬式はド派手で大規模なものだった。

市長はじめ市の幹部が勢揃いしていたということだ。

 

一年足らずで会社を辞めた俺は当然のごとく父親に激しく叱咤された。

とは言え、さすがに親は親で、一人息子が家に引きこもっていては親戚に顔向けできないし、世間体が悪いということで、父親は俺に市役所での仕事を紹介した。

ということで、とりあえず地元の市役所でアルバイトを始めることになった。

俺の住んでいる町でこの前、お年寄りが一人で亡くなっているのがニュースになったが、市内には一人暮らしのお年寄りが結構いるらしい。
 市はこの状況に対応するため、一人暮らしのお年寄りなどを対象に訪問サービスを開始する方針を打ち出した。

従ってアルバイトの大義名分は地域の一人暮らしのお年寄りとのふれあいにあるらしい。
 この訪問サービスは、事前のアンケートで訪問を拒否しなかった人や回答のなかった人を訪問し、安否や健康の確認をし、市で行っている催しや各種福祉施策の案内などを行うというものだ。

市の広報などによって、このサービスのPRは周知徹底されだが、事前に連絡すると相手が身構え、体裁をとり作るので、ご近所さんが気軽な感じでお邪魔するという格好の飛び込み訪問が原則だ。

飛び込み訪問では会ってくれない場合もあるが、そのときは事前に了解を取る。

それでもダメなときはあっさりと諦めるらしい、まあ当たり前といえば当たり前のことだが。

任用期間は一年でその後のことは未定。

研修期間という名目で一月間ほど室の整理をしながら事業内容や個人情報の扱いとか市の施策や事務処理の仕方などの説明を受けたが、このサービスについては、市の方も財政難で、本腰を入れるほど余裕はないようで、他の事務処理も兼ね合わせる形で、アルバイトを雇ってお茶を濁すという感もある。
 アルバイトの訪問員は全部で十人で、みんな元校長とか福祉相談員とかカウンセラーとかで、それなりの経験の持ち主ばかりで、畑違いは俺だけだ。

それでも雇ってもらえたのは、親のお陰としか言いようがない。
 それぞれの受け持ちは三十世帯程度だが、俺の分担は十一世帯だ。

市が未熟者に配慮してくれたのだろうと思ったが、上司からは「みんな癖が強そうな人らしいよ」と聞かされた。

仕事の量は少なく見えても中身は濃いということだろうか。

訪問サービスといっても、健在確認ということで、「今日は市の訪問員です」とお年寄りの家を回って、簡単な聞き取り調査を行い、役所の事業を紹介したり、世間話や昔話をして、またお邪魔しますと言って、役所に帰って聞き取った近況などを報告書にまとめ、そんなことを何回か繰り返すだけでいいらしい。

それ以外の時間は事務補助ということで資料整理、パソコンでの清書、コピー製本、雑用などの単純作業に費やする。

時間的にはこちらの方が中心と言えるが、これで賃金を頂いたら申し訳ないという感じがするほどの仕事で、鼻歌を歌いながらでもできる気楽なものでノルマも何もなく、自分のリズムでやれるのがいい。

この雑用まがいの仕事と訪問サービスがどう結びつくかは考えないことにした。
  訪問サービスでの俺の受け持ちは、みんな市役所の近所で徒歩でも十分なところばかりだ。

自転車も用意してもらったが、自転車だとせかされているような気になり、仕事も他の人より早く終わってしまいそうだし、鍵をかけたり、置き場所を探すのも面倒なので、ゆっくりとほんやり歩いて回ることにした。

 

金こそ命、青木さん

 

最初に訪問するのは五丁目の青木さんという八十二歳の男性だ。

市からもらった地図と大まかな情報を記した用紙と聞き取り調査票などをカバンに入れて出かけたが、青木さんの家はかなりの豪邸で立派な門の横にしゃれた形のチャイムインターフォンがあったので、それを押して返事を待った。
  「どなたですか」と貫録のある低い声が響いた。
 「はい、市役所から来た訪問員です」

それから暫しの間、何の返答もなかったので、再びインタフォンに近づいて「あのー」と言いかけたとき、正門横の出入り口が開き男性の顔が見えた。
 のっけから難しそうな顔をしたオッサンとの対面だ。
 「今日は、青木さんですか」
 「そうですが、ご用件は?」

俺は青木さんにこの事業を行うにあたっての経過とか趣旨や内容を改めて説明した。

青木さんは自分には関係ない、役所に期待することは何もないと言いながら「せっかく来たのだから、ちょっと上がっていきなさい」と俺を中に入れた。
 広くてきれいな庭を通って家の中に入り、高級そうなソファーがある応接室に通された。
 「こんな大豪邸で、お一人でお住まいなんですか」と聞くと、青木さんはソファーに奥深く胸を張って座り、葉巻のようなものを口にしながら「ああ、今は一人だ」と大柄とも思われる態度で答えた後、俺の顔をじっと見た。

一人暮らしのためなのか、この人の性分なのか、豪邸にいるのにお茶一杯出てこない、これも俗にいう世間の冷たさか。

聞き取り調査を始めようとしたが青木さんの方から、あれこれと質問してきた。

「君は役所に勤めて何年だね」

「いえ、一月程前からで、実はただのアルバイトでして任用期間は一年と聞いています」
 「ただのアルバイト?日給制なのか」

「はい、日給は七千円程度ですね」

「七千円、一年だって・・・いい若いもんがそれじゃあダメだろう、その前は何をしていたんだね」

「普通のサラリーマンです」

「どうして辞めたんだ」

「まあ居心地が悪いというか、自分には向いていないと思ったんでしょうね」

俺は適当に返事をすればいいと思った。

「まるで他人事のようだな、居心地のいいところなんてこの世にはないよ」

青木さんは『今どきの若い奴は』と言いたげな表情を浮かべた。

「この世にないということは、あの世に行けばあるのですか」

決してからかって言ったのではなく、他に何を言っていいのかとっさに浮かばなかった。

それでも青木さんの難しい顔はそのままだった。
 「違うよ、生きている限り回りは敵ばかりということだ」

俺はこれがお年寄りとの世間話というやつで、適当に合わせて会話が途切れた隙に聞き取り調査票を埋めて、お暇しようと思ったが、青木さんは尚も話かけてくる。
 
「なぜ回りに敵が多いか分かるかね」
  「いいえ、僕には」
 
「君の回りには敵がおらんのかね」
 
「敵のこととか味方こととか、考えたことはあまりありませんし、難しいですね」
 
「何が難しい、それは君が鈍感なのか、それとも君が魅力的なものを持っていないからだよ」
  
青木さんの態度が益々偉そうで難しそうに見えてきた。
 
「魅力的と言いますと」
 
「財産だよ、そんなことも分からないのか、俺みたいな資産家になると必ずそれを狙う奴が出てくる」
 
「狙う奴ってどんな奴ですか」
 
「まず、気を付けなければならんのは身内だな」
 
「身内ですか、ご家族のことですか、奥さんとか、お子さんとか」
 
「そうだ、家内とはとっくに離婚して子どもは後継ぎにするのに必要だから三人とも引き取ったが、その子どもが危険人物だ、財産を守るのに引き取ったのにだ」
 
「えっ、どうしてですか、青木さんのお子さんでしょう」
  「自分の子どもだと油断していいのは小さいときだけ、子が大人になると敵に変わる」
 
「敵になるのですか、お子さんが」
 
「そうだ敵だ、俺は一代でこの会社を築いたんだ、青徳商事って会社、テレビでコマーシャルもやっているから、知っているだろう」

セイトク商事ですか、ええーと」
  「何だ知らないのか、まあ君は若いからな、君の親父くらいの年代ならみんな知っているよ、何せ当時は世界に羽ばたく勢いだったからな、この身一つで世界に打って出たんだよ、それが今はチマチマしたことばかりやりよって」

役所が把握している個人情報によると輸入関連の会社の元経営者となっていたが。

俺はセイトク商事なんて会社は知らない、たぶん俺の親父も知らないだろう、第一『セイトク』ってどう書くんだ、あっそうか『青木徳三郎』で青徳か、会社の名前の付け方からして手強そうな相手だと思い俺は身構えた。

青木さんはどんどんくる。
 「俺が社長を退いてから、会社が様変わりして、それまで海外で大きな取引をしていたのに。

海外からの高級家具や高級丁度品は全てうちの会社が関係していたのに、今では日用品や台所用品程度の小物ばかり、リスクの大きい取引はできないとか、商売の原則は薄利多売だの理屈ばかりこねるわ、買い付けに時間をかけ過ぎて、日本で販売するときには、他社でも同じような商品が出回ってしまっている有様だよ。
 俺の時はヨーロッパで掘り出し物が出たら、すぐ飛んで行き一気に商談を成立させたのに、今は石橋を叩くばかりで渡ろうとしない。

二言目には会社や関連企業の従業員の暮らしを守る義務があるとか言ってみたり、日本型ワークシェアリングだと言って社員を五時に帰してしまう、あげくの果てに会社は赤字さえ出さなければよいとまでぬかす、もう滅茶苦茶だ」

俺にはどうでもいい話だが、ただ黙って座って聞いているだけではまずい雰囲気だった。

「今の社長が息子さんですか」

「そうだ、長男だ、会社には次男もいるが長男のいいなりだ、長女は会社と家を捨てとっくに嫁にいってしまった、資産を守り運用するためにアメリカの大学まで行かしたのに何を学んできたのかと言いたいよ、俺は高校もろくに行っていない、回りからバカにされても頑張ってきたというのに」

「長男や次男さんが敵ということですか」

「そうだ、奴らは仕事は適当にしておきながら、俺を締め出し、今度は俺が死ぬのを待っているんだよ、遺産相続のために」

「お子さんだから相続しますよね」

「そうは問屋がおろさんよ」

「お子さんには財産を相続させないということですか」

「そうだ、びた一文やらん、俺と俺が築いた会社をないがしろにしおって、俺から地位と名誉を略奪した極悪人だ、一銭もやらん、役所だったら何かいい方法を知らないか」

青木さんの目は怒りに満ちていたが、俺は関係ない、勝手に自分で考えろと心の中では叫んだ。

「遺言書はどうですか、遺留分は請求されるかもしれませんが」

「誰に相続させるというのかね、そんな人間誰もおらんよ、俺の回りはみんなろくでもない奴ばかりだ」

「だったら寄付するとか、名前は残りますよ、名誉に投資するんですよ」

「そんな名誉なんて回りの人間がねつ造すれば、簡単に不名誉に置き換えられてしまうよ、本当はこうだったとか嘘を並べられたら吹っ飛んじゃうよ、俺の回りにはそんな奴が確実にいる」

まあそう言われるとそうかもしれない。

「じゃあ今の間に好きなことに全部使かっちゃうのってどうですか、ゴルフでも旅行でも何でもいいから」

「誰がそんなもったいないことをするんだ、ここまでくるにはどれだけ苦労したと思うんだ、寝る間も惜しんで、時には床に頭をこすりつけ、時には危ない橋も渡ってきたからこそ、今があるんだ、俺が日本中に別荘を十軒持っているのはそういう努力の結果だ、別荘だけじゃあない、マンションも十軒ほどある」

俺が今なすべきことは話に乗ることだけだ。

「すごいですね、みんな個人の所有ですか」

「そうだ、今は会社名義のものはない」

「今は会長という立場ですか」

「いや、はめられたんだ、役員会で、騙しおって」

「追い出されたのですか」

「裏切られた」

青木さんの目つきが前にも増してきつくなった、俺はその憎しみに満ちた視線から逃れたかった、話題を変えたかった。

「ところで、こんな大きな家だと掃除も大変でしょう、お手伝いさんとかはいないのですか」

家政婦紹介所を通して毎回違う家政婦に来てもらっている。

同じ人だとつい油断してしまう可能性があるからな。

家政婦紹介所だと本人が金を持ち逃げしたら紹介所に賠償請求できるからな」
 ダメだ、どんな話をしてもあの目が追いかけてくる。
 「さっきの話だが」

「はあ」

「俺の資産のことだよ、墓を作ろうと思っているんだ」

「墓ですか」

「そうだ、一等地に土地を買ってそこに俺の墓を建てるんだ、三丁目の公園くらいの広さはいるなあ」

「まるで古墳じゃあないですか」

「最高級の墓石、それに純金も必要だな」

「とてつもない額になりますね」

「百億はかかるかな」

「百億?さあ、それにそんな墓なら維持管理も大変ですよ」

「そうなんだ、それが問題なんだ、この家もそう、マンションでも別荘でもそれがなあ、そこでだ、頑丈なコンクリーの壁で全部囲って鍵を閉めて劣化を防ぎ、中に入れないようにすれば、汚れないし、初期費用だけの問題で維持管理は容易になると思うんだが」

「それじゃあ誰の墓で、どんな墓か分かりませんよ、大金かけた意味がありませんよ」

「それもそうだな、もう少し考えてみるか、苦労するな」

段々アホらしくなってきたが、青木さんは会社を追い出されたときに、全ての資産を自分の所有にし、今はそれを守るために四苦八苦している。

誰にも譲らず一人で消化しようとしているがその方法が未だ掴めないで苦労している。
  若いとき苦労した青木さんは今も苦労している。

貯めるも苦労、守るも苦労、使うも苦労か。
  もう聞き取り調査がどうのという状況ではない。

俺は早々に切り上げなければと思い、「すいません、次の予定がありまして」と立ち上がった、青木さんは何か考えごとをしているようだったが「おう、そうか、また考えがまとまったら連絡するよ、ここでいいのだな」と俺が渡したチラシにある電話番号を指さした。
  俺はそれには答えず「いろいろご協力とありがとうございました」と言い、青木さんの家から逃げ出した。

結構な疲れも感じた。

 聞き取り調査票を埋める余裕もなかったので近所の喫茶店に入り、コーヒーをすすり一服しながら調査票を適当に書いた。
  それから何日か経って青木さんが亡くなったと聞いた。

原因は過度のストレスが引き起こした突発的な脳卒中だということ。

墓は間にあわなかった。

俺はざまあみろなどという不謹慎なことは思わなかったが、悲しさを感じることは全くなかった。

葬儀に行く必要はないだろう、香典もいいだろう。

 青木さんからの連絡はもうない、あの目にさらされることもないと思いホッとした。

 

ホラーマン木村さん

  今日は月曜日、俺は木村さんという六十六歳の男性宅を訪ねる。

木村さんは、さほど大きくない古びた四階建ての賃貸マンションの一階に住んでいる。
  事前の調べでは月曜日以外は仕事に出ているということだった。
 
ドア横のブザーを鳴らすと木村さんがパジャマに薄手のカーディガンを羽織って出できた。
  正面から見ると髪の毛は両サイドのみにしか残されていないが、その頭から苦労の痕跡は見い出せない、健康的なハゲ方だ。

「どちらさんですか」

「市役所から来ました訪問員です、一人暮らしの方を対象に訪問させてもらっています」

「ああ、例の奴ね」

「はい、ご存じでしたか」

「ああ、知っているよ、市報でね、それで何か記入するの」

「いえ、こちらからの簡単な聞き取りだけです」

「あっそう、まあ中に入ったらどう」

「いいんですか、じゃあ失礼します」
   中に入ったとき、埃を被り、大型ゴミに出したほうがいいようなゴルフバッグが目に入った。

「ゴルフをされるのですか」

「ああ以前はよく行ったよ、そう言えば昔ね、ゴルフクラブが一本なくなっていてね、ドライバーが、それで明日コースに出るから部下にドライバーを一本買ってこいと言ったんだよ、そうしたらどんなドライバーがいいかと聞くので、何でもいいから早く買ってこいと言ったら、そいつが買ってきたクラブが三百万したんだよ、参ったよハッハッハ、仕方ないからそれでコースを回ったよ」

いきなり何という話だ、俺の頭に暗雲が立ち込めた。

『どこの店に行けば一本三百万円のクラブを買えるんだろう、木村さんは三百万を部下に渡していたのか、部下がポケットに三百万円程入れていて立て替えたのか』どうでもいいことだが、そんなことを思いながらも俺は「へえー」驚いたふりをした。
  木村さんは調子に乗ってまた喋り出した。
 
「釣りも趣味でね、貸船は面倒だから釣り船を買ってしまったよ、衝動買いだね」
 
船の登録や検査、係留手続などそっちの方が面倒だと思うが。
  さすがの俺も今度はノーリアクション。
  立ったままこういう話を聞くのは辛い、楽な仕事はないと父親がよく言っていたが、昨今はお役所仕事といえども厳しいものがある。
  ようやく部屋に上がることができた。
 
俺は部屋に入ってすぐのキッチンにあるテーブルに木村さんと対面するように座った。
  聞き取り調査の途中で、木村さんは、以前は日本有数の呉服店に勤めていて、目の回るような忙しさだったと感慨深く語った。
  「あのころは忙しかったね、日本国中、外車で走り回ったよ、外車で」

別に外車じゃあなくても走り回れるが、とにかく外車ということを強調したいようだ。
  「呉服って高級品でしょう、そう簡単には売れないでしょう」
  「いや違うんだ、僕はセールスじゃあなく、小売店からの依頼を受けて、新しい着物のデザインの紹介とか、展示のノウハウとか、販売のノウハウを伝授するコンサルタントみたいな仕事をやっていたんだ、日本各地にある一流店はほとんど回ったね、それになんといっても着物は日本の伝統文化だから、いろんなことを教えるにはそれなりの人物が必要なわけで僕に白羽の矢が立ったんだね、参ったよ」
 
木村さんは単なる呉服売りとは違うとでも言いたげだった。
  「日本の伝統文化ですか、素晴らしいですね、日本の古典文化芸能」

何でもいいから話を合わせておこう。
  「日本の伝統文化に詳しいの、興味があるの」

木村さんは探りを入れるような目で聞いてきた。

昨今、日本の伝統文化芸能については外国人の方が興味を持っていて、日本人よりも詳しい程だという人もいるので「いいえ、僕は日本人なので」とギャグを入れたが伝わらなかった。

俺は慌てて言い直した。

「日本の伝統である着物は海外でもすごく人気があるようですね」

「そうなんだ、海外にもよく行ったよ、高速ジェットで世界の主要都市を飛び回ったよ」

木村さんは現在、市の外郭団体のシルバー人材センターに登録して図書館で本の配送の仕事をしていると市の人から聞いていた。それも仕事ぶりは決して評判のいいものではないなどいろんなことを聞いていた。

日本国中を外車で走り回り、世界中をジェット機で飛び回ったと言う木村さん。

今は自転車で図書館に通っている。

「ご家族は?差支えない範囲で結構ですよ、簡単でいいですよ」

ぼちぼち聞き取り調査を終わりたかったが、そう簡単には行かない。

「仕事の関係で世界中を飛び回っていて、家庭を顧みる暇がなかったことが原因で離婚してね、妻には慰謝料として一億円ほど払ったがね」

話の先が見えてきた、もうこれ以上の聞き取り調査は諦めた方がいいかもしれない。
 
木村さんは子どものことは口にしなかった、俺も聞く気にはなれなかった、どうせケンブリッジやオックスフォード大学の名が出てくるだろうから。

それともまだネタができていないのかもしれない。

子どもの存在については返答なしとでも書いておこう。

それにしても一億?俺は何か言った方がいいのかなと思った。

「一億ってすごいですね、借金ですか」

「借金?そんなことないよ、現金で一括だよ、まあそれくらいは稼いでいたからね、今でも呉服店は定年退職したが、展示会のアドバイザーとして年間二千万円ほどの収入はあるよ」

俺の中では『ももええで』という気持ちが沸騰してきた。

「二千万ですか、お金に不自由していないのに図書館の仕事をしているのは健康保持のためですか」

「そうですよ、働かないと体が鈍るからね」

それならボランティア活動もあるだろうに、事実市の方では、高齢者のボランティア活動を推奨し、各事業を推進していて、市の事業の案内やPRも仕事のうちだったので聞いてみた。

「ボランティア活動なんかもいいと思うんですが、花壇の管理とか、公園の清掃とか、ラジオ体操の普及とか、いろいろあって市の方で参加者を募っていますよ、皆さんから感謝されますよ」

俺にとっては、指示された通り市の事業を説明しただけのつもりだったが、木村さんは一瞬ムッとした表情を見せた。

「いや、そうじゃあなくて、働くことに意義がある、日本経済発展のためになる、みんながボランティアだと経済はダメになるよ」

そう語る木村さんの目は生き生きとしたものではなかった。

木村さんの虚言に俺は虚しさを覚えたが、憎らしいというほどのものではなかった。

しかし話の中で彼の心を傷つけてしまったと思うと申し訳ない気がしないわけでもないが、彼を受け止めるほどの大きな心は持ち合わせていない。

俺は何とか理由をつけてお暇しようと思った。

木村さんの家を出たとき、五月にしては寒いと感じた。

夢を見るのは勝手だが、次元の低い、俗っぽいウソ話を他人にすればするほど虚しさを感じることだろう。

嘘話に付き合ってくれなくなり、無視されたり、バカにされたとき、木村さんはその人を憎しみ恨むだろう、今まで話に付き合ってくれた分、逆にその人に余計辛く当たり、結局自分の首をしめることになるだろうに、愛していたものに裏切られたような感情を抱くだろう、人間の感情はそんなふうにできているものだから。
  果たせなかった夢を果たせたごとく語るのは寂しい限りだ。

そしてあのとき、ああだったら思い通りに行ったのにと後悔もするだろう、うまくやった奴に嫉妬し憎しみも抱くだろう、そんな感情にまとわりつかれることがなければ何を空想しようが、それはそれなりにハッピーかもしれないが・・・それは無理だろう。
  まあ『せいぜい言いなはれ』と検討を祈るということにしておこう。

  俺はそんなことを思いながら近くの公園のベンチに座り調査票の足らずの部分を記入し、書き終えて役所に戻ろうとしたとき、季節外れのニット帽をかぶり、ニッカポッカどころではないダブダブズボンの男が隣に座った。

袴をはいた古典芸能の継承者かと思ったが、そんなわけはない。

俺は変な奴がきた、関わらずにおこうと思いつつ、チラッと横を向いたら、その男も横を向いて目が合ってしまった。

何と変な男は大学時代の仲間だった。

俺は何だ、あいつかと思い声をかけた。

「お前大野じゃないのか」

「おお、久しぶり」

大野は涼しそうな表情でそう答えた。

「お前俺がいたのを知っていたのか」

「うん、大学のときから知っているよ」

「違う、俺がここに座っていたのを気づいていたのかということ」

「いいや、それは違う、今分かったんだ」

大野のリズムに合わすことは簡単ではないが、憎めないところがある奴だ。

好きな奴の一人というには程遠い存在だが、俺は大野をうっとうしいと思ったことは一度もない。

「こんなところで何しているんだ」

「日向ぼっこ」

「日向ぼっこ?陽はっていないぞ」

「だったら何ぼっこと言うんだ」

「知らないよ、そんなもん、ところでお前、今日は休みか、今は何をしているんだ」

「日向ぼっこ以外にか」

「もう日向ぼっこはいいよ、働いているのか、サラリーマンか聞いているんだよ」
  「いいや働いていない」
 
「あっそうか、お前も仕事辞めたのか、実は俺もなあ」
 
「いいや、俺は辞めていない、初めから働いていないから」
 
「未だに親がかりか」
  「親がかり?」
 
「親に面倒見てもらっているのか」
 
「分かり易く言えば、そんなところだ」
 
「よく分かるよ」
 
俺は会社を辞め、今は役所でアルバイトをしていることを大野に説明した。
 
大野は俺が会社を辞めた理由を聞くこともせず、当時の俺の心情を察するようなことも口にせず、ただ軽く頷いた。
 
「ああそうなの、年寄りの面倒も大変だよね」
 
「お前に分かるのか」
 
「分かるよ」

「どうして」

「話し相手になっているから」
 
「誰の?ホランティアか」

「お年寄りの、おじいちゃんの」

「どこの」

「俺の」
  「ふーん、お前が相手をしているのか」
 
「親は忙しいから」
 「お前は暇だからな、昔から」
 
「だから今も暇なんだ」
 
「ええっ、あっそうか、おじいちゃんは元気なのか、今何歳?」
 
「八十ぐらいと思うよ、元気だけど、落ち込んだりしたときいろいろと話かけてくるよ」
 
「何で落ち込んでいるんだ、どんなことを話かけてくるの」
 
「ああ、自分はもう世間から忘れられていて寂しいとか、天涯孤独だとか」
 
「ふーん、それでお前はどう答えたの」
 
 大野は「ああ」と言い、しばらく間を置いてから喋りだした。
  「世間そのものは人間と違い記憶などできないから忘れることもできない」

「うん、それで」
 
「それで忘れているのは世間じゃあなく個々の人間の話で、個々の人間の記憶は本人もどうすることもできない身体の造りの問題、他人の身体の造りを思い悩んでも始まらないよ、それに人の名前が思い出せないなんてことも言っているね」

「それで」
 「これも脳の海馬の状態の話で体の造りの問題、人の名前が思い出せないと言っても、その人が笑っているとか怒っているとかは分かるらしい、ならそれで十分、わざわざ思い出さなくてもいいよ、みんな人間には違いないから。

名前なんて記号や番号みたいなものだし、それにずっと同じ人間でいられるわけもないし、まあ覚えていた方がいい時もあるし、忘れてもいい時もあるよ」
 「ああそうなの・・・そうは言っても、年を取ると孤独感が増してくるらしいよ」
 「かといって天涯孤独でもないよ」
 「どういう意味だ」

「どんな人間が、どんな場所にいようが人間はそれなりの関わりの中にいるし、話し相手がいないと言っても、最低限自分自身に語りかけているから」
  「そうじゃなくて自分を理解して欲しいということ、ああそうか自分を理解するのは自分か」
  俺は大野の話はアホみたいだか一利あるのかとつい思ってしまった。
  「それでおじいちゃんはどう言った」
  「ポカンとした後、また寝てしまった」
  「そうか」俺はそれしか言えなかった。
  しばらく沈黙が続いたが、大野は「じゃあ俺行くよと」言って立ち上がった。
  俺が「どこへ行くの」と聞いたら大野はこれから考えると言って背を向け歩き出した。
  俺は「じゃあな」と一声かけて、大野と反対の方向に歩き出し、二人の再開は終わった。

  以前大学の仲間に無性に会いたくなり、連絡を取り実際に合ってみたら、それほどの感動はなかった、喜びは会う前の俺の想像の中にしかなかったということだろう。

でも大野との出会いは、期待こそしていなかったが、あまりにさっぱりし過ぎていて清々しささえ感じた。

 

中村さんの葬儀

 

夏真っ盛り、病に伏していた中村さんが亡くなった、七十歳だった。

 治る見込みはないと本人は思っていたようだ。

 人生七十年は長いのか短いのか俺には分からない。

 俺のじいちゃんは去年亡くなったが、八十過ぎてもスポーツジムに通うほどの健康志向、長寿志向の強い人だった。

 人間死んだら負け、生きてなんぼのもんとよく言っていた。

 八十過ぎの老人のこの言葉に俺も含めて家族も親戚も反応することはなかった。

 それでもじいちゃんは食事や睡眠時間に気を使い、ひたすら元気でいようとしていた。

 しかしその努力の甲斐もなく死んで逝った。

 高額にも関わらず体への負荷も大きく、生存の確率も高くない治療を家族は選択しなかった。

それを知ってか知らずか、死の三日前のじいちゃんの顔には口惜しさがにじんでいた。

 じいちゃんより十歳以上も若くして逝ってしまった中村さんのことを可愛そうとは思わない。

人間死ぬ時が来たら死ぬ。

  中村さんも酒もタバコもやらないし、体に良くないようなものを口にすることもなかったはずだが、本人は長生きすることには関心がないようだった。

中村さんは穏やかで物静かな方で、六畳一間のアパートに住んでいた。

二、三回訪ねたことがあるが、市の行事や施策には何の関心も示さなかった。

あるとき「中村さんの楽しみは何ですか」と尋ねたら「楽しみを求めて、ここにいるわけではない」と笑って言われ、「じゃあどうして?」と聞き直すと「それは分からない、人間にはここにいる理由なんて分からない、分かる必要もないけど強いて言えば必然性といったところかな」という答えが返ってきた。

俺がまた「中村さんにとっては生きている意味というか、生き甲斐とか目標とかは特にないということですか」と聞くと中村さんは「人間は意味があって生きているわけじゃなく、目標があって生きているわけでもなく、生き甲斐があるから生きているわけでもなく、生きているから意味や生き甲斐や目標を探そうとしているだけじゃあないの、そんなのは生の添加物の一つだよね」と晴れ晴れした表情で答えてくれた。

中村さんは「死には添加物はなく、死は敗北でも悪いものでもないが自然に逆らうような生き方、死に方が人間にとっての悪、敗北だ」とも言っていた。

中村さんの生とは虚飾を一切はぎ取ったものだ。

そんな中村さんだが、俺は葬儀に参列しようと中村さん宅に出向いたが、中村さんのことをよく知っているという人の話では通夜も告別式もしないということだった。

それでも家の中に人の気配を感じたので訪ねてみた。

家には娘だと名乗る女性が一人で、部屋を片付けていたので、俺が自分のことを説明すると、娘さんは片付けの手を止め座布団を用意し、どうぞお上がりくださいと言ってくれた。

俺は上がって「このたびはご愁傷様です」と挨拶をしたら娘さんは「ありがとうございます、こちらこそお世話になりました」と礼を言った。

俺はそこで娘さんに聞いてみた。

「やはり葬儀はしないのですか」

「ええ、お墓もありません、遺骨も持ち帰っていません」

「えっ、それは中村さんの遺志ですか」

娘さんは「そうですね、これです」と言いながら、俺にチラシの裏に細マジックで書いたメモのようなものを見せた。

メモの内容は娘さんに書いた遺書のようなものだった。

そこには『私の体は細胞の生死によって保持されてきた。

一つの生が一つの死を生き、一つの死が一つの生を産み自然が生きている、人間も全ての個体同様、自然の産物である以上、自然の力によって常に変化にさらされ、形は瞬時に変わっている、その変化の一つが死と呼ばれている状態であり、自然はその死に、その変化に生きている、自然の変化にいい悪いはない。

それが自然の姿であり、活動であり、私という個体の変化もその自然の活動の一つである以上、
たとえ骨になろうが灰になろうが私は私であり続ける以外にない、気体に変化しようが液体に変化しようが私はこの自然のどこかに存在しているから、ことさら死を悲しまず、葬式なんぞのセレモニーで自然の変化を茶化す必要はない。

私を遺骨や墓という限定した形に置き換えるようなことはしないでほしい、自然の力と運動を個人の歴史に置き換えないでほしい、自然の変化をそのまま受け入れる、そのまま肯定する、それで十分、それ以外は何も要らない』と記されていた。

俺はメモに目を通した後、娘さんにつまらないことを言ってしまった。

「お父さんは何か宗教宗派に関係しておられたのですか、仏教関係とか」

「いいえ、全く、でも本はよく読んでいましたね、宗教関係の本ではないと思いますが」

「そうですか、いえ、中々ここまで言える人はいないと思いまして」

「そうですね」

「お父さんは、僕の前では楽しみを求めて生きているわけじゃあないというようなことをおっしゃっていましたが・・・」

「はい、父は、自分はただ生きているだけ、だからただ死ぬだけとよく言っていましたが、けれどそれは自分の意志ではなく、自分を超えた大きな力の現れとして自分がいると考えていたようです」

「はあ、でも間違いではないような気もしますね」

「父は生きるという強い意志を持ち合わせていなかったのですかね」

「どうしてですか・・・」

「延命治療も高額治療も全て要らないとよく言っていましたから」

「お父さんにとっては、どの道死は避けられないから延命治療も高額治療も不自然な死の選択と思われたのではないですか、病に倒れてからは、いたずらに苦痛の世界を彷徨うことなく、すみやかに旅立ちたい、苦しみの期間が短い自然な死を選ばれたんじゃあないですか」

「まあ、余命宣告に近いようなことは言われていましたが・・・」

中村さんの家を出たとき、俺は、中村さんにあの穏やかで物静かな物腰の中に大らかな雰囲気を感じたことを思い出した。

そして彼の中に死さえ含む生への強い肯定と生死を謳歌する姿を見た。

彼にとっては死とは生の肯定の一部なのだと感じたが、自分が中村さんの真似ができるかというと・・・できない。

俺には欲がある、目標も持ちたいし、それを生き甲斐にしたい、でもそれが見つけられない、何でもいいわけではない、いい加減な夢物語のような目標はごめんだ、届かないものを目標にはしたくない、余計苦しくなるだけだから。

中村さんの真似はできないが、ああいう人がいるということが少なからず俺の心を揺さぶった。

葬式など要らないと言ったことが格好よく見えたのかもしれない、真似はできないと思うが・・・。

 

哲人太田さん

俺が訪問するお年寄りの大半は、社交的ではなく地域の人とのふれあいなど頭にない人たちだ。

これから訪問する太田さんはその典型といえる人だが話しにくいタイプではない、亡くなった中村さんと似た感じがする人だ。

太田さんと会うのは三回目だが、たわいもない話の中で俺の大学の先輩だということが分かった。

それが縁かどうかは別として遠慮なく話ができる人だ。

太田さんは大学を出た後、定職には就かず一時アルバイトでトラックの運転手をしていたらしいが、そのとき事故にあい、歩行もままならない状態だ。

相手の一方的な過失のようだが、満足に賠償金も支払ってもらえず、今は内職のような仕事で生活している。

生活保護の申請を勧めたが「そのうちにするよ」と言ったきりで、生活保護のことを考えている様子はない。

太田さんがコツコツ仕事をしているのは、別に労働は義務であるとか、尊いと思っているからではなく、ただ体や脳が動きを求めているうちは、それに従っているだけらしい。

太田さんは古い六軒長屋に住んでいる。

関西では文化住宅と言われていた建物だ。

両隣は空き家で、剥がれ落ちた外壁は修繕されるのを待っているというより、これでいいと開き直っているようだ。

半開きになっているドアから声をかけたら「どうぞ入って」と声がしたので中に入り、畳の上にじかにあぐらをかいた。

「きょうは内職は」

「今終わったよ、夕方業者が取りに来て、また仕事を持ってくるよ」

「これって儲かるのですか」

「さあ、月に八万から十万くらいかな」

「十万ですか」

「ああ、一日の半分以上はやっているからね、他にすることもないしね」

「ここの家賃は」

「二万」

「やって行けないということもないということですか、ギリギリで」

「やっていけるよ、ギリギリで」

そう答える太田さんはロングの白髪、細身で長身、澄んだ瞳から昔は格好いい青年だったと想像できる。

「太田さんってずっと独身でしたね」

「そだうね」

「それは主義ですか」

「そんなことないよ、そんなの主義と言えるの」

「恋人もおられたんでしょう、思い出しませんか」

「それはないね、記憶の片隅にはあると思うが、それ以上のことはないね」

「ケガをされたことが原因で別れたとか」

「それはないよ、そんなことが原因で別れるカップルなんていないんじゃあないの」

恋人と別れた理由を聞きたいという気持ちもあったし、太田さんもそれには触れて欲しくないという態度でもなかったが何故か聞くのをやめた。

太田さんの持つ雰囲気がそうさせたのだろう。

「この内職はいつからなんですか」

「もう三年になるよ」

「それまでは?」

「会社からの見舞金とか僅かな蓄えとかで何とかね」

「ふーん、それで一日何をしていたのですか」

「足がこうなってからしばらくは、一日図書館で本を読んでいたよ」

「どんな本ですか」

「図書館の本は100番から900番と並んでいるから全部読もうとしたけど、150番辺りで止まってしまったね」

「哲学、心理学辺りですか」

「そう、それでその辺の本をよく読んだね」

「それで一番感じたことは?」

「うーん、本質の世界ってことかな」

「本質って、現象に対しての本質のことですか」

「そう」
太田さんとはこれまでも宇宙の話とか素粒子の話とかおよそ現実生活とは無縁な話をしてきた。

「へえー、面白そうですね、是非太田さんの本質の世界を聞きたいですね」

  「はあ、まあやることもないから喋ってみようか」

「是非、お願いします」

そう言うと太田さんは俺に語るというより自分自身に語りかけるように喋り出した。

「本質がなければ何も存在することはできない、本質こそ現象を成り立たせているもので、現象するものであるけど、我々人間の身体という外延的諸部分とは次元が違もので、外延的諸部分は外部との関係の中で生じ、外部の力によって変化し、消滅するもの」

「個々の人間の身体なんかは外部の物質によって生まれ、維持され、消滅されるということですね」

「そう、外部の力によって、外部からの影響がなければ生きていけないが、外部からの影響がなければ死ぬこともない、外部の力は個々の人間の身体維持という面ではブラスマイナス両面ということになる」

「そのマイナス面になると人間は弱いから、あれこれ原因や理由をこじつけて、そこから逃れようともがくのですね、マイナスというのは何も生死に限ったことではないと思うけど理由をこじつければこじつけるほど苦しくなっていく気がしますね」

「そうだと思う、ところが本質は外部とは関係ない内部の力そのもの、だから本質的には人間は消滅しない、人間の身体などの外延的諸部分は常に外部の力により無限に変化し、消滅するけど個々の人間の本質は本質として永遠に存在する、外延的諸部分は外部との関係にある以上、外部の力により否定あるいは限定されるが、本質は外部を持たないので、これを否定限定するものは何もない、否定限定されないものこそ完全に永遠に存在し、肯定されるものということ」

この辺が中村さんとそっくりだ。

「外延的諸部分とか身体とか個体などは意味がないということですか」

「そんなことないよ、本質は自然の力の一つの現れで、力である以上、外延的諸部分を引き付け、また引き離す」

「だから人間身体などは誕生し、死滅するわけですね」

「外延的諸部分が集まり個体となるが、外延的諸部分あるいは個体の存在と変化の根底には本質の存在がある」

「本質と変化の関係?」

「本質が変化するというより、本質があるから変化がある、本質がなければ水は気体にも固体にも変化しない。

現象を現象として成らしめているものが本質の存在。

その意味では個体も自然の力の一つの現れで、自然の力は個体にも自然全体にも同じ力として働いている、個体は個体としての恒常性維持の機能があり、自然全体にも存在する力がある。

自然全体は外部を持たない、永遠に在り続ける力を有している、その力の一つが個体の力すなわち本質」

「その恒常性維持の機能の根源的原因が本質ということですか」

「本質を取り巻く外延的諸諸部分すなわち外部との関係の中にあるものは生成と消滅というように一定の運動法則を繰り返すことで己が属する自然全体を維持しようとする」

「生があるから死があり、一定の作用が生じれば反対の作用が生じるということですね」

「外部との関係の中にあるものの必然性だね」

「ところが本質は我々が経験する法則や我々に関する必然性の外にあるものなんですね」

「全ては自然の力の現れで、自然の力は全てを含み全てを超越している、個体の本質は永遠の力として存在する自然の本質の現れで、本質はその外延的諸部分のように横の関係を持たない自然との垂直関係にあるもの」

「自然から直接与えられたようなものですか、そこには否定も限定もないから在り続けるということですか」

「そう、自己の本質を認識する限り否定も限定もない、身体すなわち外延的諸部分がどんな形に変化しようが、本質の世界では永遠に存在し、在るということ自体を肯定している」

「本質の世界って把握しづらいところがあるような気がしますが・・・」

「自己の本質を認識することはできるが、他者のそれを感じることはできないし、理解することも不可能」

 「自分だけの世界を感じ取るということですか」

「うーん、それが個々の本質の認識、ここでの認識対象はあくまで自我なき個的本質だからね」

「個別的であっても自我はないのか」

「他者あっての自我意識だから、他者を前提とする以上、自我は相対的なもので本質には属さない」

「でも他者がいるからこそ・・・ああ、外部から影響を受けているのは外延的部分で本質ではないのか」

「外延的部分という物質は外部の物質から影響を受けているよ、それも本質の存在を前提としているが、本質は存在そのものを肯定する個体内部の力」

「二つの世界があるということですか、本質の世界と外延的諸部分というか現象の世界が」

「本質の世界の上に現象世界なるものが展開されているということ、世界は一つしかないので二つの見方があるということ、どちらかを完全に捨て去ることなどできない、人間の身体と精神のように同時に二つの見方があるということ」

「身体と精神という面からすると人間は一方から見れば精神で、一方から見れば身体ということですね」

「そう同時に」

「まあ同時だから身体と精神の間には時間的因果関係はないということか。

そして本質の世界で言うと本質が分母で現象が分子ですか」

「そうも言えるね、無限を分母として有限なるものが展開しているとも言えるね」

「分母がなければ分子は存在しない、個々の人間のように有限なるものにも無限性が宿っている、それが本質か。

そうですか、論理的必然性といった感じですね・・・ところで誰が書いた本が一番面白かったと思いますか」

「誰が書いたって?」

「作者ですよ、太田さんが読んだ本の作者ですよ、たぶん著名な人でしょう、何人かいると思いますが」

「さあ、覚えていないし、そんなの気にしたことないしね」

「作者には興味がないのですか」

「誰が書こうと自分自身の体験を踏まえての叫びだからね、自分自身を納得させるために書いたものだから」

「人に分かって欲しいからじゃあないのですか、それに評価とか名誉とか」

「まずは自分自身にでしょう、何事においても理解したいという欲望は人間の本能みたいなものだし、誰しも自分に自分自身を理解させたいと思っているよ、だから自分に訴えるため、自分を表現するため、初めから他者に期待することはないと思うよ、ましてや初めから名誉なんか気にしていたら書けないよ。

自分自身への叫びと他者の評価は全く違うものだよ、まあ社会的評価を求める前に社会的評価の意味を考えた方がいいと思うよ」

「でも今はみんなそうではないような気がしますが、評価を考える前に評価が絶対的だと取っているようで」

「どこかで順番が変わってしまったんだね、初めから他者と自分を取り違えることはないと思うよ、取り違えると自己の表現でなくなってしまい、別のものになるからね」

「取り違えですか・・・」

「自分と他者を取り違えるトリックによくひっかかるもんだからね、人間は」

「それも自己の本質への認識不足ということかな」

「そうかも知れないね」

「ふーん、やっぱり本質ということか、でもその自己の本質の世界って理論や理屈じゃあ中々実感できないじゃあないですか、何かヒントになるような、きっかけみたいなものってないですかね」

「きっかけ?」

「そう、ふとしたきっかけで目の前に青空がパアっと広がるみたいに、パアっと本質の世界がという感じのものが」

「脳が新鮮な刺激を受けたとき、新たな何かが展開すると言う意味かな」

「そう、そんな感じ、それを具体的に言って欲しいのです」

「それを言葉で説明するのは難しい」

「でもせめて、こんなことがきっかけで本質の世界を感じることができたとか、何でもいいですから言葉にしてもらわないと」

「言葉も刺激を与えるものだが、刺激の受け止め方は人によって違うから」

「どういうことですか」

「例えば、『強い意志を持て』と励ます、『意志など自由に操れるものではない』と諦めさせる、言葉の意味は正反対でも、諦めさせる言葉から新鮮な刺激を受ける人もあり、励ましの言葉から新鮮な刺激を受ける人もいるから、人によって違ってくる、また同じ人間でも時と場合に違ってくる」

「言葉で説明しても、みんな感じ方や受け止め方が違うということですね、言葉の限界ですか」

「限界はある、自分で言葉を発したり、言葉で考えても、その言葉と自分の内なる実情とか実感とは、ちょっと違う、説明し切れていないと感じることは誰もが経験していることで、言葉は万能ではない」

「そうですか、でも本質を感じ取ることも、その新な刺激が出発点になりそうですね」

「逆に言えば、どんな言葉からでも刺激を受けることは可能で、その場合でもそれは新鮮な刺激には変わりないから、言葉なんて何でもいいとも言えるが、行き当たりばったりの出たとこ勝負の命中率が低いそんな言葉で納得させるのは至難の業、刺激は言葉だけからじゃあないので、言葉にとらわれなくても、広がるときには、パアっと広がるよ、それに本質の存在を疑わない限り、一つのエンジンが弱まればもう一つのエンジンが強まるよ」

「一つの見方から遠さがると、もう一つの見方に近づくという意味ですか」

「そういうこと、全ての思いや観念から離れても、本質の観念が離れることはない、存在の肯定である本質の観念はいつ、いかなる場合でもなくなることも離れることもない」

太田さんと俺の間には、何か溝があるような気がして、それを埋めようとするあまり、俺はくだらないことを言ってしまった。

「本質を認識して何かいいことはありましたか。

ああ、すいませんそんな次元の話ではないですね、つい口が滑りました」

太田さんは「ああ」と小さく頷いて俺を諭すように話始めた。

「効用ねえ、あるよ」

「何が?」

「真理を知ったら嬉しいよ」

「真理? それだけですか」

「それだけでは十分じゃあないのかな」

「もう少し、何とか・・・」

「人間は感情の動物と言われているように、人それぞれによって感じ方は違うけど、感情って大きな意味を持つよね、感情には満足感や充実感などの喜びの感情と不安、恐怖、不満、嫌悪、嫉妬、怒り、憎悪などの悲しみの感情とがあるけど、何かを否定すれば悲しみ、肯定すれば喜びの感情が生じるよね。

もちろんこの場合の否定は全否定じゃあないけど、全否定なら対象が無くなってしまい否定すらできなくなるからね。

肯定は全肯定、否定はその限定ってとこかな」

「全否定なんかできないから何か自分と共通なものを残しての部分的というか中半端な否定ですね」

「まあ喜びの感情は、人間にとって存在の肯定、存在力の肯定そのもので身体はそれに平行して快活になる。

これは自然の本質がもたらす結果で、本質は外部のものに影響されないから、その観念からは事物の肯定から生じる喜びの感情しか生まれないでしょう」

「存在そのものを喜ぶか・・・」

「そう」

「善し、と肯定すれば喜び、嫌と否定すれば悲しみの感情が生まれますね」

「本質の認識は個体内部の力そのものの認識で、外部の観念を含まない個体の存在そのものの肯定の認識で、それ自体は否定を含まない、認識とは理解で人間は理解している限り悲しみの感情とは無縁となり喜びしか生まれないということで、この本質は自然の本質の現れで、この本質を通じて自然と個体は存在し、結ばれていることを直感すればいいんじゃあないの。

真理を知って嬉しいところに加えて、大宇宙も含めた自然の本質の一部を自分が担っていると考えればスケールの大きい新たな次元の喜びに満たされるよ、これでどうかな」

「理解する喜びか、本質を認識して自己満足に浸るか」

「他者の観念を含まない認識による自力満足、それ以外に何もないよ、それ以外は自然の運動があるだけでしょう」

「だから太田さんは他者とか他人のことは眼中にないのですか」

「そういうことかな、まあ他者のことは気にならないけどね」

太田さんがそう言ったとき、ふと福島さんという相談員のことが頭に浮かんだ。

福島さんはいつもにぎやかで、しょっちゅう誰かと喋っている人で、友達のことが心配だからと言ったりもしているが、誰かと接してしなければ不安で頭がおかしくなりそうだと言うのである。

まさに太田さんと正反対の人だ。

「太田さんとは反対に他者の輪から外れると不安で仕方ない人もいますよね、しょっちゅう人と接していなければ身も心も持たない人が、それに他人のことが気になってしようがない人とかも」

「他者の影響によって動いている人のこと?」

「そうです、他者の観念でいっぱいの人です」

「そういう人は他者の観念を排除すると何もかも無くなってしまい動けなくなると思い込んでいるから、それが怖いということだろうね、他者を自分の鏡に見立てて気に入ったり、嫌がったりしているからそれがなくなると自己の観念が成り立たなくなり自分が存在しなくなると思っちゃうんだろうね」

「他人の輪の中に入らないと不安になるのも、他人を気にせざるを得ないのも器の小さい自分のためということですか、他人を案じてのことじゃあないですね」

「自己の観念から離れることなんてできないよ」

「なのに他者依存に陥ってしまう、他力満足か、取り違えのトリックか自己と他者の」

「そうなるね」

「何でもかんでも、よく喋る人もいますが、普通はあまりそこまで喋らないですよね、自分の本心をあからさまにするのが嫌だから」

「見方を変えればそれだけ正直ということかな、よく喋る人って」

「これも不安隠しですかね、他人の輪の中に入りたがる人、他人のことが気になって仕方ない人とかも、こういう人たちは本質の世界とは無縁な感じですね」

「無縁ということはないけど、チャンスを逃しているかもしれないね」

「孤独、一人が本質の世界にふれるチャンスということですか」

「他者の観念から離れると、その分自己の観念に直接向き合うことになる、自己の観念とは自己肯定、存在肯定の観念に他ならない自己の本質の部分だから、そこには他者や他物に制約されない能動的な喜びが生まれる」

「自分が今どう思っているか、どう感じているかという自己の観念だけを思考の対象とするわけか・・・、生の実感って案外そこにあるものかもしれませんね、人を見たり人に見られたりするところじゃなくて・・・。

でも一人で自分に向き合う時って怖いこともありますよ」

「それは他者の観念が入り込んでいるか、それの延長上にある死の観念などが入り過ぎているということだよ」

「そんなもんですかねえ」

太田さんとの溝は埋まらなかった。

俺は「ふーん」という感じのまま太田さんの家を出た。

亡くなった中村さんと太田さんは似ているが、二人の間に面識はない、ということは互いに感化し合ったわけではない、ただそういう価値観の人がこの町に複数いるということが何故か不思議に思えた。

太田さんは魅力ある人だ、太田さんのように生きてみようか、いや無理はよくない、太田さんにはなれないし、どこかで太田さんたちのことを『変わった奴らだ』と思いたい自分もいるから。

太田さんの言う他者なき世界などないと断言する気はない、しかし他者の中に生き、他者の中でもがいている俺だか、他者なき世界に生きられないことも知っている。

孤高の人にはなれないが、他者と自分を取り違えるようなことは絶対したくない。

 

始末が悪い始末家中井さん

 

中井さんは七十過ぎの女性で、ご主人とは遠の昔離婚し、現在は年金生活で、マンションでの一人暮らしだ、子どもは東京の方にいるとは言っていたが詳しくは語らない。

東京の有名な女子大を出たとのことだが、あまりイメージと合わない。

その中井さんから役所の方に電話があった。

国民健康保険の減免申請の用紙を役所に届けて欲しいということだった、自分で行ってもいいが何やこれやと聞かれるかもしれないのでそれが嫌だというのだ。

まあ仕方ないか、それくらいならいいかと思い、訪問がてら、その用紙を取りに中井さん宅を訪れた。

チャイムを鳴らすと「どうぞ中に入って」と声がしたので俺はドアを開けた。

中井さんのマンションはヨーロッパ風の建物で、どこかゴージャスな雰囲気もする外観であるが、内と外は大違い。

中井さんの部屋はヨーロッパ風を通り過ぎてヨーロッパの大戦後みたいに悲惨な現状だ。

その悲惨な戦場跡にジャージ姿の中井さんが立ちすくんでいた。

部屋中すごく散らかっていて、記入したはずの用紙が中々見つからないらしい。

中井さんは「おかしいわね、確かここに置いたはずなのに」と言い「あなた役所の人でしょう、国民健康保険の用紙くらい直ぐに見つけ出せるでしょう、上がって探してよ」と言ってきたので部屋に上がり二人で用紙を探した。

テーブルの上や引き出しにも領収書やレシートが散乱していたが、よく見るとほとんどが日付の古いものだった。

俺は一枚一枚に目を通して日付順に整理しながら用紙を探した。

何故そんな親切なことをしたのか、はっきりは分からないが俺にもサービス精神があると言うことだ。

「ああ、これじゃあないですか、これ減免申請用紙」

「ああそれだわ、さずかね」

「それにしても、この古いレシートなんか要らないんじゃあないですか」

「それ、いつの日付?」

「ええっと、三年前ですね」

「三年、なら要らないわね」

「最近のものだけ残して捨てましょうか」

「ちょっと待ってよ、せめて一年、いえ、二年前のものは置いておいてよ、あとはいいわ、捨てても、まだあの箱にも入っているから整理してよ」

中井さんはそう言ってタンスの上のダンボールを指さした。

ダンボールは全部で三つ、その中にはレートや領収書類がこれでもかというぐらい押し込まれていた。

俺と中井さんは三時間かけてそれを整理した。

サービス精神を発揮し過ぎた感がある、元の職場の上司ならなぜそれを仕事に活かせなかったのかと嘆くかもしれない。

自分の限界に挑戦してみろと言われ続けてきた俺だが今日がその限界だった。

「だいたい終わったみたいね」

「そうですね、でもどうしてこんなに、レシートとかを溜めているんですか」

「万が一のためよ」

「万が一って?」

「ほらレジの打ち間違いとか」

「打ち間違いって、みんなバーコードでしょう」

「そのバーコードが間違っているとか、間違いはないと百パーセント言い切れないでしょう」

「百パーセントとなると・・・どうかな」

「そうでしょう」

「それで毎日レシートをチェックしているのですか」

「それはあまりしないけど、間違いって何かの拍子で分かるものよ」

「そのときに備えてですか」

「そうよ」

俺が何気なくテーブルにあった小さな空のポリ容器を満杯になっているゴミ箱に捨てようとしたとき中井さんが「それ、捨てたらダメ」ときつい調子で言った。

俺が「どうして」と聞くと「それは病院でもらった薬の容器なの、容器を持っていけば二十円返してもらえるのよ」と返事が返ってきた。

容器のふちにアリのような虫がいたが、俺は黙って虫だけゴミ箱に払い落し容器をテーブルに戻した。

中井さんは一枚のレシートを見ながら「もう帰ってもいいわよ」と感謝の気持ちを表すことなく俺に退去を促した。

『わかっとるわい』というセリフを胸に抱いて俺はマンションを出た。

中井さんの家を出たとき、きれいな夕焼けが街を染めていた。

夕焼け空と紙屑屋敷、どちらも俺の眼を満たしてくれた。

中井さんが言うように、万がの万が一、何かの拍子で間違いが分かったとしても、レシートや領収書の金額を見る限り、大した金が戻ってくるわけではない、むしろ十円、二十円の話だろう、店に行くまでのバス代の方が高くつくことになるのに、それでも中井さんは何年も前のレシートや領収書までも捨てない、明細書や説明書なども無造作にダンボールに押し込んでいた、その中から一枚のレシートを見つけるのは不可能といってよいほどの神業だ。

有効期限の切れたサービス券、一昨年つぶれたスーパーのポイントカード、見るからに怪しい割引券、そんな紙切れで足の踏み場もないところで中井さんは何かを思い生きている。

彼女が小銭を貯めようとして、こんなことをしているようには思えない。

こんなことをしても小銭は貯まらない。

では何故、彼女はあんなことをしているのか、置き換えられた一つの欲望だと思うが、それ以上は詮索できない。

それが彼女の生き甲斐だというのなら、それはそれで仕方ないことなんだろうか、しかし生き甲斐にしては彼女の精神は何を得たのだろう、レシートは失っていないが国民健康保険減免申請用紙以上のものを失っているかもしれない。

俺は遅くなった理由を適当に言って、今日は直帰して報告書は明日提出すると役所に電話した。

紙屑整理、俺はこれも意義のあるお役所仕事の一つと思うことにした。

もっとも役所でもどこでもイチイチ意義があるかないかと考えて仕事をしている人には未だ会ったことはない。

 

嫁が(かたき)渡辺さん

 

今日は渡辺さんという六十六歳の女性からお声がかかったので訪問する予定だ。

渡辺さんは、長男のお嫁さんとそりが合わず、同居を止め、一人でアパートに住んでいる、年金も受け取っているが、家賃も生活費も長男が負担している。

お嫁さんの長男への接し方や孫の教育、しつけなどことごとく意見が合わず、毎日喧嘩の繰り返しだったと言う。

たまりかねた長男から、しばらく別居してくれと涙ながらに頼まれ、バスで一駅のここへ引っ越してきた。

渡辺さんは嫁の顔を見るのが嫌で、こちらから出かけたり、連絡することはないと言いながら息子に対しては手紙をせっせと送り続けている。

今日もお悩み相談というより愚痴のはけ口に徹しなければならないのか。

まあこれも金のうちかと諦めるのが最良だろう。

俺は重い気持ちを引きずりながらマンションのチャイムを鳴らした。

待ってましたとばかりに、ドアがすぐに開いた。

さっそうと出てきた渡辺さんは、俺とは違い気合十分という感じだ。

渡辺さんの衣装がいつもより派手に見えたのは俺の潜在的な恐怖心からなのか。

「まあお久しぶり、まあ上がって」

「お邪魔します、お元気でしたか」

そう言ってもこの人とは一週間前に会ったばかりだが。

「それがねえー、手紙を送っても返事も電話もないのよ、息子から」

予想どおり例の話だ。

「いつ出されたのですか」

「えーとね、おとといかな、さきおとといかな」

先方にも都合というものがある、黙って待ってろと言いたい気持ちを俺は抑えた。

「やはりご長男のことやお孫さんのことが気になりますか」

「当たり前ですよ、私が気にしなければ、あの子は益々ダメになりますよ、孫もそうですよ、あの嫁に任せていては将来とんでもない子になりますよ、取り換えしがつかなくなりますよ」

また始まったかと思っても仕方ない、話を続けるしかない。

「取り返しがつかなくなるってどうなるのですか」

「どうなるって、そんなこと分からないわよ、先のことだから」

「はあ、そうなんですか」

話の内容を理解する必要はない、ここは話し相手になることが大事だと俺は自分に言い聞かせた。

「とにかく息子のことが気になるのよ」

「親ってそういうもんですかね、でもあまり気にし過ぎると体にこたえますよ」

「もうこたえていますよ、長男や孫のことが気になって気になってしようがないし、夜も眠れないんですよ、病院で薬をもらっているくらいですよ」

「それはいけませんねえ、いったい何が原因なんですか、お嫁さんのどこがよくないと思われているのですかね」

俺は『しまった余計なことを』と思ったが後の祭りだった。

「何が原因とかじゃあなく、みんな間違っているのよ、あの嫁は、いろいろありすぎて、細かいところまでいちいち覚えていないわ」

「そうですか」

細かいところまで覚えていない人に対しても、やっぱり何か言わないといけないのかと俺は一瞬疑念を抱いた。

渡辺さんは当然のごとく俺の疑念など無視する。

「だいたいあの女は自分勝手なのよ、全部自分の趣味に合わそうとするのよ、下心は見え見えよ、ハンバーグとか脂っ濃いものとか塩辛いものばかり作って、みんなを病人にするつもりなのよ、こんな年寄りにそんなもの食べさせたら病気どころか一巻の終わりよ、そうでしょう、どう思われますか」

ここで何か言えば、完全に相手のペースに巻き込まれると分かっていながら話に付き合ってしまった。

「そうですね、油っこいものとかはねえ、でもハンバーグで死ぬことはないと思いますが」

「そんなの分からないわよ、ローマは一日にして成らずよ」

「はあー」何のこっちゃ。

「違うのよ、それだけじゃないのよ、えーと、まあ急には思い出せないけど、とにかくいろいろあり過ぎるのよ、料理だけじゃないのよ、勝手に部屋のカーテンを換えたり、あげくの果てに亭主や子どものことを放っておいて勤めに出ると言い出す有様よ、もう滅茶苦茶でしょう、ねえ」

「ええ、カーテンですか、みんなそれぞれ好みというか趣味が違いますからね、渡辺さんはどんな感じのカーテンがお好みですか」

俺は話題を変えようとした。

「カーテンの好み?そんなものないわよ、考えたこともないわ」

「いや、カーテンの好みのことでもめたとか・・・」

もうどうでもいい、好きなように喋ってくれ、俺は運命に身を任せた。

「違うのよ、何でもかんでも自分で決めちゃうのよ、何様だと思っているのよ、全く」

錯覚かもしれないが、話しているうちに段々と面白さを感じてくるような気がした、お年寄りとの話は結構面白いものだと思おうと俺は努力した。

「ああそうなんですか、ところで渡辺さんはお孫さの将来はどうあるべきと考えておられるのですか」

「孫?そんなもの、孫の自由よ、先のことなんて分からないわ、当たり前でしょう」

俺はその通りだと感銘した。

「渡辺さんは、お子さんも自由に育てられたのですか」

「子ども、まあそうね、叱るときは叱ったわよ、いけないことはいけないと」

「褒める時は褒めてですか」

「褒める?褒めるって、ああ、まあそうよ」

「お嫁さんと渡辺さんの違いってどこなんでしょうね、具体的には」

「具体的って、それより万事が万事自分勝手なのよ」

「渡辺さんはお子さんやご主人と話合われて家庭を築きあげて来られたわけですか」

「そんな時間はなかったわよ、主人は忙しいし、私は私で自分のやりたいことがいっぱいあったし、でも私がいなきゃあ始まらないのよ、私以外、誰も何も決めないのよ、決められないのよ」

『そんなことあるかい』と思ったが話を続けた。

「やりたいことって、お仕事とか趣味ですか」

「両方ね、私の趣味を活かして、友達のブティックを手伝ったこともあるのよ」

「渡辺さんもお仕事に出られたのですか」

「そうよ、でも嫁とはそこが違うのよ」

「どこが違うの」と聞きたかったがやめた、聞いても俺の理解をはるかに超える答えが予想されたからだ。

「お仕事は楽しかったですか」

「嫌なこともあったけど、私は頑張ったわ」

「長く勤められたのですか」

「そうね、二年ちょっとかな」

「ご主人やお子さんのことが心配で家庭に戻られたということですか」

「心配?そんなことないわ」

「じゃあどうしてお辞めに」

「その友達はちょっとセンスに欠けるところがあって、それで意見が合わなくなってやめたのよ」

「そういうお仕事ってセンスが大事になりますからね」

「そうよ、そこが嫁とは違うところなのよ」

渡辺さんは嫁より自分の方がセンスが良いと言いたいわけではないだろう。

事実、渡辺さんの服のセンスは悪い。

かといって、仕事に対する熱意の話でもなさそうだ、じゃあ何だろう、それを今ここで質問するのは危険だ。

今日はこのくらいでいいだろう、またこの次、会いたくなくても確実に会うから。

俺は急な仕事を思い出したふりをして渡辺さんの家から脱出した。

外へ出たとき、反対方向から笑顔で歩いてくる可愛いらしい感じのおばあさんに出会った、面識はないが、おばあさんは俺に向かってに軽く会釈をし、通り過ぎて行った。

いろんな人がいるもんだ。

俺はおばあさんの方をちょこっと振り返ったが、おばあさんが気になったのではなく、渡辺さんのことを考えていた。

渡辺さんは子どもと自分の境目を失くし子離れできないのか、いやそれとは違う。

子や孫に自分を託しているわけでもなさそうだ。

渡辺さんは嫁が来るまでは、自分は主役を張っていると思っていた、渡辺さんの心の中には主役の座を奪われた悲しみ、奪ったものへの憎しみがあったのだろう。

それが彼女の心の中でいつしか主役になってしまった。

それが彼女の生き甲斐なら仕方ないと言いたいところだか、でもやっぱり、悲しみ、憎しみ、嫉妬などの感情を抱えた生き甲斐なんて本性に反しており、あり得ない。

でも渡辺さんは嫁さんの悪口を言い続けるだろう。

彼女が挑んでいる対象は嫁さん自身ではない、嫁さんが対象なのではない、対象は自分一人の努力で作り上げた自分の中だけの嫁さんの像だ、せっかく作り上げたものをおいそれと手放すことはないだろう。

俺はそんなことを考えながら役所に帰った。

報告書を書くのが面倒になってきた。

 

喜悦と安眠だけの天性(びと)金城さん

 

六十七歳の金城さんは養女との二人暮らしだ。

小柄で丸刈り頭の優しそうな目をした人だ。

いつも同じような作業服を着ているが、大きさが微妙に違うので何枚も持っているようだ。

養女は玉枝といい、金城さんは「玉ちゃん、玉ちゃん」と呼んでいる。

役所の資料によると玉ちゃんは二十歳で、軽度の知的障害ということらしい。

なぜ玉ちゃんを養女に迎えたのかと聞くと金城さんは「知り合いの子を養子にしました、特に理由なんか思い当たりません、どこも行くところがないようだったから」と答えた。

金城さんの知人は殺人罪で起訴され、収監されているらしい、金城さんの話によると、その知人が殺めたのは名うての悪で、徒党を組んでお年寄りや障害者を騙し、脅して金を巻き上げ、夜の街を闊歩し、そこでまた因縁をつけ金を巻き上げていたという、知人は何かの行きがかりでその主犯格の男を殺めてしまったが、その男に対して申し訳ないという気持ちはなさそうで、残された知的障害を抱えた娘に対し申し訳ないと、娘のことを案じていたという、男の仲間は一斉に検挙されたが、知人も有罪となり、金城さんはその娘を連れて役所に相談に行き養女にした。

玉ちゃんはどう見ても二十歳には見えない、少し大きめのジャージを着ていて、金城さん同様小柄でショートカットが似合う小中学生のような顔立ちで、どこが知的障害なのか分からない、ただいつもニコニコ笑っている可愛い子どもといった印象だ。

金城さんは日に三、四時間ほど廃品回収の会社で働いている。

俺が廃品回収の仕事は大変でしょうと言ったとき「以前から似たような仕事をやってきたから慣れています」と言っていた。

金城さんは中学時代から親の仕事を手伝い、親が借金を残して蒸発すると、親戚の家に引き取られ、そこでも一時は家業を手伝っていたが、ほどなく働きに出で、工場とかを転々としたらしい。

金城さんは字を書くのも読むのも苦手だと言っていたが、俺が役所の書類か何かを説明するときは、いつもハイハイと返事をしながら頷いていた。

玉ちゃんも一緒に働いているということだ。

親方に玉ちゃんのことを頼んだら「いいよ」と言ってくれたそうで、種分けの作業などを手伝っているとのことだ。

金城さんと玉ちゃんは、仕事仲間みんなに親切にしてもらっているようで、おすそ分けや古着とかいらなくなったものなど、しょっちゅうもらっているらしい。

家賃が月二万足らずの、このアパートも親方がさがしてくれたらしい、トイレは共同だ。

テレビも何もない家だ、家具といってもダンボールや発泡スチロールの箱をガムテープでつないだり、補強したものだ。

しかしそんなに見栄えは悪くなく整然と置かれており、取り出しが便利で一目で何があるか分かるようにレイアウトされている。

二人合わせて月十万程の稼ぎと金城さんのほんの少しの年金で生活している。

年金がもらえるようになったのも役所のお陰と喜んでいた。

決して暮らしは楽ではないと思うが、二人ともそんなこと微塵も気にしていない様子だ。

俺が金城さん宅を訪れるのは三回目だが、今日は職場の上司がお土産だとくれた干し魚を持って、仕事帰りに寄ってみた。

部屋の入口から「金城さん」と声をかけたが返事がない。

廃品回収の仕事はとっくに終わっているはずなのにと思い、二、三回声をかけノックもしたが反応がないので、やっぱり留守かと思い、出直そうとしたとき「はい」と言う声がして金城さんが現れた。

「やあ、どうも、おいででしたか、声をかけましたが、お留守かと思いました」

「すいません、寝ていたので気づきませんでした、まあ、どうぞ中へ」

部屋の中に入ったが、玉ちゃんはまだ寝ているようだ。

「今日は仕事で来たのじゃあないのですよ」と言ったが金城さんは俺が何の用で来たのかということには特に関心がないようだ。

「寝ていたって、どこか御加減が悪いのですか」

「いいえ、昼寝ですよ、いつもの」

「いつもですか、夜は遅くまで起きていらっしゃるのですか」

「はい、八時頃寝て八時ごろ起きます」

それブラス昼寝なら一日の半分以上は寝ていることになる。

ネコみたいな人だ。

「今日は職場でもらったお土産を持って来たのですが、干し魚お嫌いですか」

俺がお土産の包を差し出したら、金城さんは嬉しそうに「ありがとうございます、ああちょうど晩ご飯時ですね、一緒にご飯食べていきませんか」と俺を誘ってくれた。

まだ六時を少し回ったくらいで特に腹は減っていなかったが、金城さん宅の夕食に興味があったので「それは悪いですよ、ご迷惑をおかけしますよ」と恐縮したふりしながらも断りはしなかった。

「構いませんよ、さあどうぞ、玉ちゃんご飯にするよ」と金城さんが一声かけると玉ちゃんはすっと起きて金城さんの横に座った。

つられるように俺も玉ちゃんの前に座ったが、玉ちゃんは、俺が前にいても関係ないという様子で干し魚の包を見ていた。

金城さんが空きケースのようなものを出してきたので、これが座卓だと思い、俺はその上で干し魚の包を開けた、ほのかに魚の匂いがした。

「ちょっとあぶった方がいいですね、僕がやりますから。

ガス使いますね」

俺は干し魚をあぶりながら食器が並ぶのを待ったが、食器は出でこない、仕方なくあぶった干し魚を、包み紙と干し魚が入っていたプラスチックのような容器の上に並べた。

そこでやっと不揃いの茶碗と一度使ったと思える割り箸が出できた。

「まさかこれだけ」と思っていたら、玉ちゃんが立ち上がり、水道の蛇口に行きコップに水を入れ、コップを一つ座卓らしきものの上に置き、また一つ、また一つと三つ置いた。

そして金城さんが茶碗に冷えたご飯をよそい、金城家の夕食が始まった。

折角の干し魚だから日本酒の一杯くらいと期待した俺は浅はかだった。

日本酒の一杯どころか醤油もマヨネーズも何もない、茶碗のへりについたご飯粒を見て、ご飯のお代わりもできない状況だと気づいた。

それでも金城さんが玉ちゃんに「おいしいね」と声をかけると玉ちゃんも「おいしい」とニコニコ顔で答えた。

干し魚に冷や飯も悪くはないが、この家族を人気のレストランに誘えば、どれだけ感激するだろうと俺は余計なお節介心を抱いてしまった。

後日俺は、親戚がやっている行きつけのレストランがあるからどうしても付き合ってほしいと無理に二人を誘い出した。

店で一番高い肉料理を注文し「どうですかここの料理」と声をかけると、二人は「おいしい」と言ってくれたが、その顔は干し魚に冷や飯の時と全く同じだった。

俺たちは無言で料理を口にした。

食べ終わった後、俺は「食後のコーヒーはいかがですか」と聞くと金城さんは「はい」と答えた。

嘘までついて誘ったのに、俺は何だか恥ずかしい気分になり、照れ隠しに金城さんにあれこれと話しかけた。

「無理やりお誘いして申し訳ありませんね」

「いいえ」

「たまには外で食事もいいかと思いまして」

「はい、おいしかったです」

場が持たない。

「えーと、ああ、ところで金城さんは将来のことを何かお考えですか」

「将来?別にないです」

「そうですか、そのー、今はいいですが、将来のこととか心配になりませんか、つい考えちゃうことってないですか」

「ないです」

金城さんは首をかしげた。

「そうですか、今が良ければそれでいいのかな、余計なこと考えることないですね」

「今、はあ、考えても分かりませんから、頭悪いですからハッハッハ」

金城さんは笑顔を見せたが、その笑顔が何か恥ずかしそうにも見えた。

この人は本当に将来について考えることができない自分を恥じているのか、そんなわけないか。

この人の頭の中には過去も未来もないのか、考えないようにしているのか、かといって今を大切にと意識しているようにも見えない、そもそも何がいいか悪いかさえ思考の対象外になっているのか。

特に今を意識しているわけではないが、二人にとっては今あるものが全てのようだ。

本当にネコみたいな人だ。

玉ちゃんは二人の話を聞いているわけでもなく、ただ笑顔でちょこんと座っている。

子猫の玉ちゃんか。

俺はそんな二人に何故か興味を持つようになり、二人の職場をのぞいてみた。

その職場はアパートから五百メーターくらい先にある倉庫のようなところだった。

全部で十人くらいの人が働いていたが、金城親子は隅の方で二人一組になって仕事をしていた。

二人は無言で仕事をし、それが一段落つくとお互い見やってニコッとしてまた仕事に精を出すということを繰り返していた。

ちょっと失敗するとまた初めからやり直さなければならないような作業でも、何事もなかったかのように何回もやり直していた。

何かをやろうとして、やり始める、できなければまたやり、そしてそれが曲がりなりにもできたと思い喜ぶ、そしてまた何かをするといった感じだ。

考えてみればみんなそうしている、確かにみんなそうだ。

人間は何故かみんなそうしている。

人間の体や心の構造がそういうふうになっているからだろうか。

だとしたら、これが人間の本性、天性というものか。

それならその本性、天性に従うだけだ、余計なことを考えずに人間の本性、天性に従うだけだ。

本性、天性に逆らってもどうしようもない。

本性、天性にいい悪いも上下関係もない。

あの二人は本性、天性のものに従っているだけで余分なものは何もない、だからいつも楽しそうにしていられるのか。

二人からすれば、仕事の内容などどうでもいい、一流企業に勤めて高額な報酬を得ようが、今の仕事をして僅かな金を得ようがそんなことは関係ない。

あるのは本性、天性だけだ、自然から与えられた本性、天性に生きているだけだ。

高価なオードブルと料理も干し魚と冷や飯も二人にとっては同じだ、どちらもそれなりにうまいと感じている、そしてそれ以上のことは何も考えていない。

きっとそうだ、二人は豪華とか質素とか、これはよいとか、これは悪いという思いに縛られることなく、それに他人と比べることもしない。

しかしみんな他人と比較するから話が変になってしまう。

確かにどんな相手と比較しても、比較は否定と悲しみを伴う。

弱いものとの比較は虚しさを感じさせ、強いものとの比較は嫉妬や憎しみを生む。

金城親子にとっての比較は長い、短い、大きい、小さいという類のもので、そこには価値基準も良い悪いの感情も付随していないのだろう、だから他人との比較という観念もすごく希薄なのだろう。

足らないのに満ちている二人の前を遮るものは何もないのか、遮るものの観念を排除したところに生きているのか。

これがネコの世界か、別世界だ。

これは何なんだろう、なぜそうなったのか、脳の部位の関係かそれとも、いろいろ考えたが答えは出なかった。

答えは出なかったが、答えの代わりに俺はもう別世界に住む人間に興味を持つことは止めようと思った。

世間という星に住む俺が、遠い星の国から来た人のことを気遣ったり、逆に憧れても仕方ないことだ、これを答えにしよう。

 

負けない人、入江さん

 

入江さんは七十歳になる女性だが中々会う機会に恵まれなかった人だ。

入江さんを訪問する前に、上司から「地域の婦人会に入っている人で、対応か気に食わないと、大勢で役所に押しかけてくるかもしれないので、おばさんの話に興味がありそうなふりをして話を合わせておけ」と忠告され、「いやなら次はもういいが最低一回は訪問しなければならないからな」と言われた。

俺は「全然構いませんよ、逆に興味が沸いてきました」と答え俺には珍しく気合を入れて臨んだはずだったが。

「今日は、初めまして、私は市の・・・」から始めて、いろいろと話を聞いた。

入江さんの話によると厳しく怖い存在であった父親から入江さんも含めた兄弟三人は、ことあるごとに人に負けるな、人の上に立てと、さんざん言われて育ったらしい。

入江さんはそれ以外のことについては語ってくれないので謎めいているところもある。

その父の教えで頭がいっぱいだったせいかは分からないが入江さんは独身を貫いている。

兄弟とは全くの音信不通らしく、他の親戚のことなど知らないと言っている。

まあそれはともかくとしても、人に負けるなと言われても勝ち負けの基準をどこに置くのか、それにどんな場合でも相手があることだから、当然勝ち負けが付きまとい、勝ち続ける努力にも限界があると思う。

その点を入江さんはどう考えたのか。

入江さんから聞かされた少女時代から思春期、そして学生から社会人へと進む話の中で俺なりの答えが見つかった、俺の考えはこうだ。

『まず入江さんは勝ち負けの基準を金と名誉に置いた。

それは人よりも金持ちになること、そして人よりも美人に見えて、高い地位や役職を手に入れ、一目置かれることだ。

基準を設けた入江さんは、人に負けない方法を思いつく、頭のいい入江さんは投資に見合う効果を期待した。

相手がどんな人であろうと、がむしゃらに立ち向かって勝ち抜くという非効率なことはしない。

勝つための条件の一つは負けないことだ。

そのために入江さんは比較の精神構造に目を付けた。

人に負けない方法とは自分より貧しい人を探し、社会的に地位が低いと自分が感じる人が回りにいればいいことだ、自分の方が上だと思わせてくれる環境を作ることだ。

あるいは強い人間の後ろに隠れてトラの威を借る狐になればよいことだ。

それを入江さんは実に非の打ち所がない戦術だと考えた』

俺はそう思いながら中々終わらない話に付き合っていた。

話が一息ついたとき、整理箪笥の上に派手な格好をしているおばさんたちの集合写真が目に入った。

俺は何気なく「これはなんですか」と聞いたら入江さんは「ゴールドミセスクラブで美術に造詣の深い人たちで美術館に行った時の写真よ」と言った。

「ゴールドミセスクラブ?」

「あら、ご存じないの」

「はあ、そのー」

「困った方ね、役所の方でしょう、ゴールドミセスクラブっていうのは、選ばれた人しか入れない、会員制のクラブよ、行政や恵まれない人のために寄付をしたり、お茶会をしたり、美術鑑賞とか最高の芸術に触れて自己を磨くミセスの集まりよ」

入江さんはミセスではないと思うが、どういうわけか会員になっている、俺には会員になる基準は大雑把なように思えたが、入江さんは「それにそこそこの容姿も、身だしなみも必要なのよ」と付け加えた。

ということは入江さんもそこそこの美人ということか、昔は美人だったということか、想像するのが難しい。

ただ部屋着にしては派手なリボンタイブラウスを着ていたがデザインと色合いが顔とマッチしていない。

俺はそのクラブのことは聞いたが、入江さんの言うような人の集まりとは聞いていない、名前はたいそうなものの単なる地域の婦人会の一つだと思っていたが、入江さんはそのクラブを入江さん流に格上げして上機嫌に浸ろうとしているのだろうか。

俺の反応が希薄だったことが気に入らなかったのか入江さんは「市長さんにもいろいろと、ご提言申し上げているわ、これが会員バッジよ、見たことないの」と言い俺にスーツにつけられたバッジを見せた。

「ああ、これですか、見たことありますよ」

「えっ、どこで」

入江さんは一瞬ドキッとした表情を見せた。

「三丁目の酒屋のおばあちゃんもしていましたよ、なんでもかつては市の文化行政に貢献されたらしいです」

「市に貢献?その方なんという人」

「えぇーと、名前は・・・」

「その方名誉会員なの」

「名誉会員?」

「会員の中から功績のあった人は名誉会員に選ばれるのよ」

「そうなんですか、さあ、そこまでは、入江さんは名誉会員なんですか」

「もうすぐなる予定よ」

「そうですか、すごいですね」

「そうなのよ、フフッ楽しみよね」

今度は俺の反応を気に入ってくれたみたいだが、それでも入江さんは酒屋のおばあちゃんのことを聞いてきた。

「ねえその方、バッジの他にブローチしていなかった?」

「さあ、それもちょっと、それが名誉会員の印ですか・・・」

「そうよ、ダイヤの入ったブローチ、本当に覚えていないの」

入江さんはメチャメチャ酒屋のおばあちゃんのことを気にしていた。

俺は、酒屋のおばあちゃんの話題から離れようとした。

「お茶会といえば上の権藤さんはお茶の先生ですよね、あの方なんかも会員ですか」

「知らないわ、このマンションで会員は私だけのはずよ、お茶の先生だからといって、会員にはなれないのよ、それなりのネームバリューがないと」

「家元だということですが」

「家元といっても大きな流派じゃないとね、会費も結構なものよ」

「そうですか、生徒さんも結構いるようですが」

「どんな人がいるの、何人くらいなの」

「詳しくは知りませんが、自転車屋の原さんの奥さんから聞いただけなので」

「その奥さんは生徒なの」

「はい」

「あの自転車屋さんね、あまり大きいお店じゃあないようね」

自転車屋の大きさはここでは関係ないと思うが。

  「そうですか、この辺りでは古くからある店で、ご主人のお父さんが地主で県会議員だったとか」

「地主ってどこの土地持っているのよ」

「子ども公園の隣の土地なんかもそうらしいですね」

「えっ、あそこ、んまあ、どうせ担保に入っているわよ、議員だと、お金がかかるから土地を担保にお金を借りているわよ、きっと」

入江さんは俺が言う人の弱点や欠点を無理に作り上げているのが分かった。

自転車屋の奥さんとてうかうかできない。

やはり予想どおりの人だった。

面白そうなのでさらに二、三の人の名を上げた。

「原さんのお向かいの工藤さんなんて美人で清楚で、いつも小奇麗にしていらっしゃるので会員になればいいのにと思いますよ」

「美人というだけじゃあ会員にはなれないわよ、それにあの方のご子息リストラにあったのでしょう」

この人にかかればどんなことでも欠点になる。

「緑公園の前の大豪邸の秋山さんなんか会員じゃあないのですか、市長とも親しいと聞いていますが、写真の中にはいなかったようですが」

「ああ、あの方ね、元会員といったところね、今は活動にはほとんど参加していないわ、もうあの方ボケが進んで、市長も同情して話し相手になっているだけでしょう」

「ああ、そうなんですか」

中々褒めてもらえる人が出てこない、ふと写真に目をやると見覚えのある顔を思い出したので、俺は写真を指さした

「ああ思い出した、この人和田さんでしょう、この方も会員だったのか」

「あの方ね、いろいろあって入れてあげたのよ、和田さんは」

「いろいろと言いますと」

「あのね、会員になりたいと会長に泣きついてきたのよ」

「泣きつけば会員になれるのですか」

「そうじゃないわ、最終的には会長から相談を受けた私が判断したのよ、だってあの人可愛そうなのよ、だから」

「可愛そうと言っても、和田さんの息子さんは有名な経営コンサルタントで、奥さんも料理研究家で本も出されて売れているし、お優しい感じの方だし、お孫さんも優秀らしいし、サクセスストーリーの中にいて幸せそうに見えますよ」

「あら、あなたご存じないの、あの経営コンサルタントのご主人は詐欺疑惑で警察にマークされているし、奥さんは家では何もしない人で、お手伝いさんにお皿を投げつけたこともあるのよ、内と外では大違いよ、それに息子は引きこもったきりで学校にも行っていないのよ、これは確かな話よ。

幸せそうに見えるだけで、実際はメチャクチャなのよ。

他人の目ほど当てにならないものはないわよ、本人にとっては」

なるほど入江さんは他人のことは分かっていても自分のことは分かっていないってことか。

入江さんについては俺の予測が見事的中したようだ、ヤッタと思ったが喜んではいられない。

気合を入れて臨んだことを悔い、入江さんの話を僅かでも面白く感じた自分を悔いた。

もうこれ以上、誰が登場しても無駄だと思った。

俺は近々行われる市の行事や改定予定の施策の説明などをして、早々にお暇した。

人に勝つには相手を弱くすればいい、欠点を見出し自分より弱い、自分の方がましだと納得すればいい、勝つための入江さんの想像力と創造性には感嘆する。

でも無理に人の弱点を想像するのは相当なエネルギーを要し、ストレスも半端なものじゃあないと思う。

それにゴールドミセスクラブに入って特権意識を持てたとしても、また仮にそのクラブが権威の塊であったとしても、強いものに付いて生きるのは弱いものに付くよりストレスが何倍もかかるだろう。